天下の雨敬

作詩 小林和生 作曲 本田義孝 

唄 藤 一男

1、翔けた夢なら 日本を股に
  肝に銘じて 大志をいだき
  男の舞台は 度胸で決まる
  先が見えれば とことん勝負
  道はいばらの 天下の雨敬


2、生まれ甲州 剛毅な気立て
  やると決めたら 血をはきながら
  文明文化の 国土を拓く
  波乱万丈 みなぎる闘志
  時は明治の 天下の雨敬


3、苦節奮闘 命を燃やし
  国の栄と 世上にに尽くす
  偉業は燦たり 不滅の光
  華の仁徳 万民偲ぶ
  永久にその名は 天下の雨敬
  

雨宮敬次郎(あめみや・けいじろう) 1846-1911

明治の実業家。甲州財閥の中心人物の一人。12歳で商売を始め、24歳で横浜に移住。数年のうちに相場師として一財産を築き「投機界の魔王」などと呼ばれる。
しかし、40歳を過ぎた頃から、私財よりも社会貢献を重視するようになり、数々の公共事業をライフワークとした。特に力を注いだのが鉄道事業であり、現在の京浜急行やJR中央線をはじめ、東北から九州まで全国にさまざまな鉄路を敷くとともに、鉄道国有化論や広軌論などを早くから提唱。その慧眼は他に類を見ない。明治24年、44歳で藍綬褒章(らんじゅほうしょう)受賞している。

 日本の「鉄道王」
雨宮敬次郎は1846年(弘化3年)9月 現在の山梨県塩山市の名主 総右衛門 の次男として生まれる。
・7歳〜12歳   学問修行
・14歳のとき  商人となり、卵、生糸の行商で甲府と東京を行き来するが外国貿易を夢見て東京に出る。
・26歳のとき  横浜で洋銀相場、生糸、蚕、陶器、米穀、海産物など多くの商品を扱う。
・30歳〜31歳  欧米諸国を訪問各国の経済状況を知り、帰国後は文明開化に係わる製鉄、水力 発電、鉄道
  や殖産事業などに熱意を燃やし、その実現を行なった。その中でも特に重きを置いたのは、製鉄と鉄道であ
  った。
・ 36歳<1882年(明治15年)>初めて熱海への“軽便鉄道”の施設の構想を持ち、実行に移していく。当初、
  機関車はアメリカから輸入したが性能が不十分で2度の改良機でやっと熱海までの運行がかなった。
  その後、真島氏が考案した機関車が試作されたらその方が性能が勝っており国産化に移行される。さらに、
  日本の機械メーカーで改良された機関車が登場するようになり、自らも[雨宮鉄工所]を設立し機関車製造
  も始めたのである。
・ 42歳<1888年(明治28年)> 鉄道事業を拡大していく。甲武鉄道を買収し社長に就任以後[川越鉄道]、
  [北海道炭鉱鉄道]、[東京市街鉄道]、[京浜電気鉄道]、[武相鉄道] 、[江ノ島電気鉄道]他を買
  収、創立を企画、施設をし、まさに“鉄道王”にふさわしい活躍をしたのである。
・ 一方、この時代の重要基幹産業でもある“鉄山”を経営し“製鉄業”にも参入した。「日本鋳鉄会社」の社長

甲州財閥の巨頭、雨敬が結核の転地療養で軽井沢に来たのが明治16年、あのショー宣教師の5年前だ。当地が気に入り330万坪の原野を購入、ここで畜産やブドウ栽培などを試みた。うまく行かず植林事業に転換、毎年数十万本の落葉松を植え続けた。本人死後の大正期には七百万本に達した。これが避暑地・軽井沢の礎となる。今は樅ノ木が目立つ当地だが、北原白秋が詠うように昔の主役は落葉松だった。線路が屋敷近くで湾曲するのは、彼の土地に鉄道を通す代わりに家の前で停車させる約束だったとか。
 雨敬は東京、横浜を舞台に鉄道、電燈、製粉などを次々に事業化し、また投資家としても勇名をはせた。植林は余技だったのか。 広大な敷地には記念館や町立歴史民俗館などが建ち、落葉松の涼風を浴びていた。建物群の奥は浅間隠しの離山だ。その山に向かって細い道がついている。イノシシ除けの電気柵やヘビ注意の立札にびびりながら薄暗い杉林を上る。
 しばらく歩くと階段がある。40段はある。ままよと登ってみた。大きな墓碑が目に入った。碑に刻まれた文字は古び、苔むしていたが雨敬と夫人であった。左右には中、小型の10基ほどの墓が並んでいる。一族の墓所なのだ。親族以外は知る由もなかろう。寂莫の気配が漂っていた。 大実業家の雨敬だったが後継者は次々に早逝、関東大震災の被害もあって彼の事業は衰退した。
 軽井沢だけが縁戚に譲られ、その才覚で今日まで続いている。
・ 一代で“鉄道王”と称される雨宮敬二郎は三井・三菱の財閥にも匹敵する財閥に成長したが、1911年(明治44年)64歳の生涯を閉じ、その財閥もまた一代で終ってしまった。
  雨宮敬二郎と中央線との係わりを知る人は少ないが、疑いも無く我が郷土に大きな恩恵を注いだ人物であり、その足跡を永遠に記憶しておきたいものであ
る。

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雨宮敬次郎が経営に関わった企業

京浜急行電鉄(株)
1904年(明治37)より雨宮が初代社長を務める。同社サイト内の京急グループ年譜はコチラ(PDF形式)
JR東日本(株) 中央本線
1889年(明治22)、前身の「甲武鉄道」を雨宮と岩田作兵衛が中心となって開業。鉄道国有化論を早くから唱えていた雨宮は、1906年(明治39)鉄道国有法に従い、同鉄道を国に譲る。その後も、中央線が甲府まで延伸する際に土地を寄進するなど、多大な貢献をした。同社八王子支社サイト内の中央線の歴史はコチラ
日本製粉(株)
1887年(明治20)、前身の「有限会社日本製粉会社」を雨宮が設立。1891年(明治24)より取締役。同社サイト内の雨宮紹介ページはコチラ
西武鉄道(株)
1892年(明治25)、西武国分寺線の前身である「川越鉄道会社」を雨宮・岩田らが設立。同社サイト内の川越電鉄に関する年譜はコチラ
江ノ島電鉄(株)
1905年(明治38)、前身の「江ノ島電気鉄道株式会社」の三代目社長に、他に成り手がないと請われて就任し、経営を立て直した。

藤 一男

雨宮啓次郎に関する著書一覧

「伝記・天下の雨敬」小林和生著 情報山梨出版部
「幻の人車鉄道」伊佐九三四郎著 河出書房新社
「軽便王国雨宮」中川浩一著 丹沢新社
「近代を耕した企業家」三輪正弘 信濃書籍出版センター
「日本製粉社史」日本製粉株式会社 同社百周年記念出版
「雨敬顕彰碑記念誌」小林和生著 雨敬顕彰碑建立委員会
「鉄道王雨宮啓次郎ど根性一代」小林和生著 東洋出版(株)
「天下の雨敬明治を拓く」江宮孝之著 河出書房出版