推考歴史の導火線『山縣大弐と倒幕と龍馬の接点を探る』第5回

情報の連鎖を見ると、われらが敬愛する「坂本龍馬」は、武市半平太の使いで長州へ出かけ、久坂玄瑞と会った時に、話の中で、きっと師・松陰から学んだ『柳子新論』の骨格と趣旨を玄瑞から聞いているものと、(勝手ですが)推測することができるのです。

 そして、時の流れを敏感に感じ、土佐に帰国後の脱藩に結び付き、龍馬をして胎動し始めた勤皇倒幕思想のうねりの中に身を投じさせる一因になるのです。河田小龍から「ジョン万次郎の西洋体験や、機械、文明、政治体制などの知識」を得、攘夷よりも産業経済の発展に人生の方向を嗅ぎ取り、江戸では、仕組んで千葉重太郎を誘い込み、会いに行った勝海舟の思想の先見性を取り入れた龍馬はやはり、時代の寵児なのか、いや潮流に乗った大きな龍なのでしょう。

 長州には長井雅楽(うた)という家老がいる。この長井雅楽というのは土佐の吉田東洋と同じく佐幕派であり、藩では実力者なのである。主義は「幕府を助けて大いに貿易を行い、西洋の文物を取り入れ、船を造って五大州を横行し、国を富ませたのちに日本の武威を張る」というものである。 龍馬は「幕府を助けて」というくだりを除けば賛成なのである。この主義の「幕府を助けて」に変えて「朝廷のもと日本が一致して」と置き換えれば龍馬の考えそのものになるのである。
 そしてここで久坂玄瑞がいった言葉が妙に龍馬をとらえて離れなかったのである。
 それは『諸侯も頼むことはできぬ。公卿も頼むことができぬ。頼めるのはおのれのみ。志あるものは一斉に脱藩して浪士となり、大いにそれらを糾合して義軍をあげるほか策はない』。 
 土佐に戻った龍馬は武市に長州の現状を語っている。龍馬の把握した現状は鋭かった。

龍馬の発想の基本は自由で柔軟であった、藩と言う概念は無く、日本と言う概念から物を考える事によって、対外的にもひとつになれると言う当時としては飛躍的な考えであった。その考えの元は、山縣大弐が説いた、皇室崇拝による統一国家日本でした。
 しかし、佐幕派の優秀な人物までが犠牲になった藩閥政治はその影響の大きさを推測すると日本の発展を50年遅らせたような気がする.
 維新のすばらしき志士たちは消え、残った優秀とはいえないまでも現代よりはしっかりした政治家が明治を動かしたのであるが、それなりに頑張り、思想も受け継がれたのであった。武家政治開闢の清盛以来、初めて四民平等を唱えた「山縣大弐」の起案が底辺となり遅れる事100年やっと明治維新はなったのである。

山縣大弐は、茨城県八郷町・東京本郷・そして山梨県甲斐市の山縣神社に眠り、今を見守っている。毎年9月23日「柳壮学問祭り」が開かれ学問の神様として地元に溶け込んでいる。

山 形 大 弐 の 年 表

享保10年(1725)
   母 野沢沢右衛門娘 父 山三郎(領藏ともいう)の三人兄弟の二番目として生まれる。

享保13年(1728)
   父、山三郎が甲府勤番与力の村瀬家を買い取り、家族で甲府百石町に移り住む。(4歳)

享保19年(1734)
   加賀美光章(桜塢)の塾に通い、朱子学、神道などを学ぶ。(10歳)

寛保元年 (1741)
   儒学、国学などを、五味釜川に学ぶ(17歳)

寛保2年 (1742)
   大弐と兄、昌樹、京都へ遊学し諸学(有識故実、琴学など)を学ぶ。(18歳)

延享2年 (1745)
   兄 昌樹(爲清)病気のため、家督を継ぎ、村瀬軍治と改名甲府城へ出仕する(21歳)

延享4年 (1747)
  『兵叢』・『行兵條』(練兵制意と称する研究書)兵学を著す(23歳)

寛延3年 (1750)
   弟、武門が飯田新町の名主倅新三郎を殺害、失踪(26歳)

宝暦元年 (1751)
   弟、武門の殺害事件の積荷連座させられ村瀬家の家禄・泰樹を没収される、浪人になり母方の姓である山形に復姓し、山県惟貞と改名、後に昌貞と改める江戸へ出て、医者を業とした、このとき五味釜川に送った「留別の詩」がある。(27歳)

宝暦2 (1752)
   江戸に出る、医業の傍ら生徒を集め諸学を教えるようになる。 この頃、『素難評医事撥乱』(医学)を著す。(28歳)

宝暦3年 (1753)
   長男の好春うまれる、妻は竜王村斉藤左膳姉(または妹、名は不詳) 『鰍沢早発の詩』・『熱海浴泉の歌』を著す。(29歳)

宝暦4年 (1754)
 秋ごろ、幕府若年寄りの大岡忠光に仕え、勝浦代官(千葉県)を勤める、在任中、香取神社(佐倉市)を訪れ和歌を詠む(30歳) 

宝暦6年 (1756)
   勝浦から戻り、藩医となり、江戸藩邸に残る。大岡忠光、9代将軍家重の側用人となり、岩槻藩主となる。(32歳),兄昌樹と共に、袴腰天神(町指定文化財)を修理する。妻、斉藤左膳姉、8月30日没し、全徳寺に埋葬。

宝暦8年 (1758)
  宝暦事件が起き、多くの者が処罰される、竹内式部は重追放となり、江戸、近畿・越後の出入りを禁じられる。この事件は、尊王論者の竹内式部が権大納言徳大寺公城など大物公卿のほか多くの公家に幕府非難の論説を講じたため、多くの式部しじしゃ(公家)が処罰された。(34歳)

宝暦9年 (1759))  
 『柳子身論』を著す(35歳)

宝暦10年(1760)
  大岡忠光が没する、後嗣の忠善の命により、忠光の墓碑、および行状書を撰する。その後、大岡家を去り、江戸北八丁堀永沢町に私塾を開き、儒学・武術・医学・天文学・兵学・経済。地理などを教える。(36歳)

宝暦11年(1761)
『発音略』を著す(音韻額:漢字の音に関する学問)(37歳)

宝暦12年(1762)
  大弐の選文と友人の書家加藤翼の書き込みで「酒折宮祠碑」を建立、除幕式には友人の柴田正武、竹内式部らが参列。『天経発蒙』(天文暦学)を著す。(38歳)

宝暦13年(1763)
   次男、長蔵生まれる(妻は上州馬身塚村、深町半弥妹、多加)『琴学発揮』(琴に関する書物)を著す。(39歳)

明和元年 (1764)
『牙壽譜』(和算:方程式、日本独自の計算法)を著す。(40歳)

明和2年 (1765)
  肥後、細川藩に藩政の改革について投書する。(41歳)

明和3年 (1766)
  門下生と共に、吾嬬森(墨田区吾妻神社境内)に碑を建立する。小幡藩家老の吉田玄蕃を失脚させるため数人の藩士が捏造した謀によっ大弐と玄蕃が謀反を起こすと幕府に訴えられる、このとき藤井右門は大弐のもとに身を寄せていた。右門は酒の席で口論の末、桃井久馬というものに逆恨みされ大弐と玄蕃が謀反を起こすと幕府に訴えられた。

明和4年(1767)
 
2月18日、大弐は捕縛される。幕府は大弐と右門を捕らえて糾問、謀反の事実はないとわかったが兵学の講義に甲府や江戸の要害地を例えに用いたり、天皇は行幸もできず囚人同然であるなどと語ったことが、不敬、不届きであるとして、大弐は獄門、右門は牢死した。同時に、宝暦事件で京都を追放された竹内式部を、禁を犯して京都に立ち入ったとして八丈島に遠島、護送途中の三宅島で病死した。
 8月21日判決が言い渡され、同日伝馬町(東京都中央区)の獄内処刑場にて斬首される。一説には小塚原の処刑場(東京都荒川区)で処刑されたといわれる。(43歳)

山 県 大 弐 墓 所

     泰寧寺 茨城県新治郡八郷町根小屋 法名 卓栄良雄居士

   大弐の門弟で、根小屋出身の園部文之進が、密かに大弐の首を掘り出し、自宅の墓地に埋葬したといわれる。明治時代になってから、この地に改葬したといわれる。(一説には門弟らが守番に金5両を渡し、大弐の首を受け取り密かに筑波山下に埋葬したという)

     全勝寺(全徳寺)東京都新宿区船町  法名 俊昌院卓栄良雄居士

   大弐の遺骸を友人の小泉養老が妻の斉藤左膳姉(または妹)が葬られている全徳寺に埋葬した。後に全徳寺が廃寺になり、現在の全勝寺に移された。

     山縣神社 山梨県甲斐市篠原(旧竜王町)  法名 卓栄良雄居士

       安永2年(1773)大弐の7回忌を機会に、兄昌樹(斎宮)が金剛寺に墓石を立てる。

    明治11年明治天皇は山梨へ行幸を計画、八代駒雄を召された、この時八代は山県大弐の資料を持参し、大弐が勤皇の士であったことを奏上した。
 明治13年6月21日小宮山貞彰宅に馬車を停め、侍従北条氏恭をして金剛寺の墓を検分させた。さらに、小宮山貞彰の説明を受けられ、勅旨を派遣し、太政官三条実美名をもって、県令藤村紫郎に祭祀料金20円をご下賜された。明治24年12月17日正四位が追贈された。その後山県会が組織され、大弐の学友だった広瀬中庵の曾孫広瀬和育らによって神社創設が進められた。大正10年9月19日に許可が下り、大正10年9月21日県社に列せられる。その後、墓所はここに移される。

時世の句
 曇るとも何か恨みむ月こよひはれを待つべき身にしあらねば(瓣疑録)
  
 曇るとも何か恨みむ月今宵はれて眺むる身にしあらねば(好古類纂)

 曇るとも何か恨みむ月今宵とてもよにある身にしあらねば(資治雑笈)


 勤皇思想のパイオニアは図らずも、山梨県出身の江戸中期の学者「山県大弐」だった。 山崎閑斎門下から繋がる思想の基はやはり儒学であり、徳川家康が選んだ思想家の考え方が源流になり、やはり家康の意思が働いていたと見るのは考え過ぎかもしれない、当初家康は、幕府は三代持てば、次の時代を担う、武士(もののふ)が、神の意思によって使わされると踏んでいた。
 しかし、老中土井利勝は、家康の隠し子であり、秀忠の母違いの兄であったが、本家には呼ばれず、土井家のまま幕府そのものを牛耳ることになり、基礎固めに奔走する。
 この基礎が生きて、270年にも及ぶ安泰の幕府が続くのであり、明和事件は、その老中・土井利勝の夢を揺さぶる、初めの撃砲だったのかもしれない、、、、、。 

 次回は、明和事件で揺れた小幡藩織田家のお国換えの真実を予定しています
 

 参考文献

筑摩書房・日本の思想17 歴史読本・第18巻8号  講談社山岡荘八著・吉田松陰  新潮文庫山本周五郎著・明和絵暦・夜明けの辻  山県神社誌 飯塚重威著・山縣大弐正伝  成美堂出版徳永真一郎著・吉田松陰  山県大弐著・柳子新論 川浦玄智訳注