推考歴史の導火線『山縣大弐と倒幕と竜馬の接点を探る』第3回
安政二年(1855)夏のこと、、、、、、長州萩の城下に、一人の僧が飄然とあらわれた。手には錫仗を突き、汚れた衣に頭陀袋をかけ、傘の下に鋭い眼が光る30代半ばの行脚僧である。名は默霖といい、一向宗本願寺派の僧である。彼は私生児で幼いときに寺にやられ、オシでツンボという二重苦を負いながら、当時諸国を行脚して勤皇を説く勤皇僧であった。
默霖は1年前にも萩に来たことがある。土屋松知という藩の学者の家に逗留した。その時に、先に下田の渡海事件で世間を騒がした吉田松陰という若い学者が、野山獄で書いた『幽囚録』一巻を読んだ。これは松蔭が国禁を犯してまで、海外渡航を企てた理由を明らかにしたもので、その中で松蔭は「鎖国の陋法(ロウホウ)は徳川の世に限ってのことであり、外国を知ることは国の三千年の運命にも関する重大問題であるから、あえて自分はほうを犯した」と書いている。「自分は皇国に民である。黙然と座視して、国の運命に目をつぶっていることはできない、、、、」。
默霖がこの萩の城下町に二度目にやってきたのは『幽囚録』の筆者と論争をするのが目的であった。松蔭は出獄して場外の松本村の父のの家に謹慎をさせられていた。「蟄居」という罪だから、人との面会は許されない。松蔭と黙霖との間には、手紙で論争が続けられた。
山獄の一年間では、読書と思索にふけり、百六冊の本を読み十一人の囚人 宇都宮默霖 に孟子の講義をしたりした松蔭だが、彼はまだ少年時代から教育を受けた水戸学の影響から抜けてはいなかった。
兄の梅太郎に出した手紙にも「幕府への忠節は、すなはち天朝への忠節にこれなく候」とかいたように、「君は君道もて臣を感格し、臣は臣道もて君を感格すべし」という臣としての厳格な立場を守っていたのである。
このころ、ハリスは下田に着任して、大統領の国書を将軍に奉呈しようとさかんに運動中であった。開国か攘夷かの論争が、京都でも江戸でもようやく活発になった頃で、志士の活躍も目立ってきた。
松蔭は僧月性とも親しく、月性に送った手紙にはこう書いている。「天子に請うて幕府を討つことは、不可である。大敵が外にあるいま、国内相せめぐ時ではない。諸侯と心を合わせて幕府を諌め、強国たらんとするはかりごともなすべきである、、、。」
つまりこの頃の吉田松陰の思想は、どこまでも「諌幕」であった。その手段としては、「藩主を通じて幕府をいさめる。幕府が聞き入れないときには、はじめて藩主をおし立てて討幕にのり出す」ということだ。
こうして萩に来た默霖と、三畳間に蟄居する松蔭との間の手紙のやり取りによる論争も、その内容が急所に近づきまた、対立も深刻になった
默霖が一度ひそかに会って話したいと申し入れたのに対して、松蔭は藩への遠慮もあり「わが容貎にみるべきものなし」とこたえて、面会を断った。しかし默霖の手紙は、松蔭を根底からたたきのめしたのであった。「茫然自失し、ああ、 これまた妄動なりしとて絶倒いたし候」と正直に黙霖に書き送った。「僕、ついに降参するなり」。松蔭を「絶倒」させた黙霖の論というのは次のようなものである。「幕府の政治は、支那でいう覇道にほかならなず、この国を古の朝廷政治の王道に戻さねばならない」。「孔孟の道にしたがい、今の幕府は放伐すべきである」。「水戸学は口では尊王を説くが、いまだかって将軍に諫言をし、天室を重んじたためしが無いではないか」、、、、、、。
つまり、松蔭のいう「倒幕論」は、じっさいは行われない空理空論の過ぎない。われわれのなすべきことは、「一生でかなわなければ、二世、三世かけても、王政復古をはかる」ことである。
そしてこのことを知るためには、黙霖は松蔭に山県大弐の『柳子新論』を読むことをすすめ、その秘密の写本を贈った。九月になってから、松蔭はこの本を読んだ。彼は大弐については、幕府の断罪文を読んだだけで、その思想に触れたことは無かったが、今初めて黙霖におしえられ、百年前に断罪になった革命家の理論を知ることができた。
大弐は孟子の放伐論によって徳川幕府を否定し、日本の古代王朝政治に王道をみようとした。そして、彼はこの思想のじっさい行動として、民衆の教化にのり出すのだが、幕府転覆の嫌疑を弟子の密告によってかけられ、捕縛斬首された。いわゆる「明和事件」である。 幕府は、この事件を朝廷にひたかくしに隠した。朝廷に対して弾圧をかけたように受け止められるのを非常に恐れたためである今、百年前の思想によって、松蔭の目は開き、革命家としての松蔭の第一歩は踏み出された。時に二十六歳百年の導火線に火がつきくすぶり始めたのである。 続く
参考文献
筑摩書房・日本の思想17 歴史読本・第18巻8号 講談社山岡荘八著・吉田松陰 新潮文庫山本周五郎著・明和絵暦・夜明けの辻 山県神社誌 飯塚重威著・山縣大弐正伝 成美堂出版徳永真一郎著・吉田松陰 山県大弐著・柳子新論 川浦玄智訳注