「おわら風の盆」の歴史

おわらの歴史

おわら踊る人々

 飛騨の山々が描く稜線から富山平野へとたどるその途中に、細く長く広がる坂の町・八尾がある。肩を寄せ合うように建つ家並み。細く坂になった道と脇に続く路地・・・。年に1度、なんでもないこの風景がより輝く季節がある。

 おわら風の盆の幕開け

 二百十日の初秋の風が吹くころ、おわら風の盆の幕開けを迎える。毎年9月1日から3日にかけて行われるこのおわら風の盆は、今も昔も多くの人々を魅了してやまない。涼しげな揃いの浴衣に、編笠の間から少し顔を覗かせたその姿は、実に幻想的であり優美である。山々が赤くもえる夕暮れを過ぎると、家並みに沿って並ぶぼんぼりに淡い灯がともる。
 それぞれの町の伝統と個性を、いかんなく披露しながら唄い踊る。その町流しの後ろには、哀愁漂う音色に魅せられた人々が1人、また1人と自然につらなりだす。闇に橙色の灯が浮かび上がり、誰もがおわらに染まっていく。

おわらの歴史は、元禄ごろから

 おわらの歴史は古く、元禄のころ。
 生活の中から見いだした喜びを面白おかしく表現しながら、町を練り歩いたことが町流しの始まりという。しかしその多くの表現は、当時の庶民生活の実態をそのまま露骨に唄ったものだったため「このままでは伝えるより先に滅んでしまう」。そう感じた芸達者な人々は、歌詞を改め、新しい詞の間に「おおわらい(大笑い)」の言葉を挟んで踊った。これが、おわらの語源になっている。また一説によれば、農作物の収穫の時期に豊年を祈り、おおわら(大藁)とも。
 かつて風の盆は、お盆の8月中旬に行われていたらしいが、町の人口が希薄になるその時期に祭りを続行することを、懸念する声が少なくなかったとか。
 当時暦の主流だった太陰暦から、太陽暦へ統一されたことを機会に、旧暦のお盆にあたる9月初旬に改められたといわれている。

多くの人々に育てられて

 時は大正から昭和初期。おわらにとって最大の変革の時期を迎える。舞句・俳句の文化が全盛のころ、大正8年に誕生した「おわら保存会」もまた、おわらの唄、踊り、拍子にその影響をうけた。
 会長の川崎順二らの働きかけで、各界の一流の文化人たちが次々と八尾に来訪。おわらに文芸の息吹を吹き込んだ文化人には、宗匠・高浜虚子、作家・長谷川伸もいたという。
 若柳流の舞い、三味線、太鼓、胡弓の音色。それぞれが、おわらの魅力に引き寄せられたように、ひとつになった。
 その時代に生きた文芸人らの想いは今、歌碑となって八尾地区町内のあちらこちらで息づいている。散歩がてら、町の「おわら名歌碑」めぐりをして回るのも楽し。
 新しい時代の息吹を吸収しながら生きるおわら風の盆は、これからも新しい変化を繰り返し、次の世代へと継承されていくことだろう。また、そう願わずにはいられない。



踊りの変遷

おわら踊る人々

 八尾の1年は「風の盆」のおわらから始まる。
 おわらは、素朴でその土地らしい味わいを残しながら、他の民謡に比しても、際立って美しい。それは300年間もの時代の流れに従いながらも志を変えず、先輩の情熱やおわらに注いだ愛情を変えず、時代に合わせて綿々と踊り継いできたからこそ。伝統を受け継ぐということは、たゆまぬ創造がなくてはならない。

3通りの踊りがある

 おわらは他の民謡と同様に、はじめは唄だけだったが、そのうち楽器が入り、踊りが入ってきた。時代と共に踊りも変わってきて現在は、1.「豊年踊り」(旧踊り) 2.「男踊り」 3.「女踊り」(四季の踊り)と3通りある。
 明治44年の「北陸タイムス(北日本新聞の前身)千号記念」に、そのイベントの一つとして、八尾のおわらが登場している。芸者たちが即興で踊ったのが始まりといわれている。
 大正2年に北陸線が直江津まで開通した。富山県は記念事業として、東京都をはじめ、7県の連合共進会を開き、9月1日から50日間の大イベントの中で「おわら」や「麦屋節」が踊られた。
 その際、江尻せきが中心になって、芸者たちと富山に出て来て、歌詞や伴奏を練り直した。「宙返り」は深川踊りから、「稲刈り」はカッポレから取り入れられたのもこのころだった。それは、これまでの芸者の色っぽくて難しい踊りから、非常に単純で美しい「豊年踊り」に仕上がった。
 大正9年に「おわら節研究会」ができ、以後毎年2月に「おわら大会」が、鏡町の明治座で催され、皆楽しみにしていたという。2月というのは長野県や群馬県の製糸工場に出稼ぎに行っている女性が帰ってくる時期で、女性の人口が1番多い月だからだ。「おわら」は女性中心であった。
 昭和4年に、東京三越で富山県の物産展示即売会でのアトラクションの呼びかけがあったのを契機に、富山県の要請で医師の川崎順二を中心に「おわら」の修正がなされた。踊りは若柳吉三郎、唄は常磐津の林中、四季の歌詞は小杉放庵らに依頼した。若柳は40日間八尾に滞在し、八尾の情感を体に溜め、熟させて、5月に「四季の踊り」が仕上がった。東京三越で初めて芸者が披露し、きれいな踊りと大人気だった。
 当時「おわら」は芸者が踊り、町の娘は踊らなかった。「女踊り」は鏡町の芸者が踊り、「男踊り」は「甚六会」が踊ったという。娘を人目に触れさせなかったし、踊りに出すのはもってのほかだった。しかし、医者で名門の川崎順二は、5人の娘を率先して踊りに出した。「あの川崎先生の娘さんが踊っているのなら」ということもあって、一般の人も踊るようになったという。

現在

 6月の温習会の1週間を皮切りに、7月の演技発表大会、8月20日〜30日の前夜祭を経て9月1日〜3日の「風の盆」を迎える。
 戦時中の「踊ったら国賊」という時代背景にもめげず受け継がれてきた伝統の「おわら」は、町ぐるみの熱い思いとなって現在に至っている。
 現在では、子供のころから風の盆の演舞会に出場させる。演舞会で恥をかかないようにと一生懸命練習するので、皆格段に上手になる。しかし、25〜26歳ぐらいで踊らなくなり、楽器に入っていく。「いい味が出せるころに、踊りをやめるなんて残念だ」と役員を嘆かせる。



おわらといえば、胡弓

おわら踊る人々

胡弓とおわらとの出会い

 「おわら節」はもともと、青森の「津軽あいや」から鹿児島の「はんや節」まで、全国に名前を変えて存在する。出稼ぎ者が地方から持ち帰った「はいや節」が変化したものといわれている。特に「佐渡おけさ」とは兄弟分と思えるほどに似通ったところが多い。とすれば、おわらにも最初は胡弓が無かったと考えられる。
 文献には、明治の終わりごろ「おわら節」に胡弓が使われるようになったと確認される。元祖は松本勘玄(輪島出身の漆職人)といわれている。彼は大阪で浄瑠璃の修行をしながら、長唄・小唄・三味線音楽などあらゆる分野をマスターした。旅芸人の一座に加わり全国を回っていた彼は、縁あって八尾で結婚した。ある日、越後瞽女の佐藤千代が奏でていた胡弓と出会う。おわらの唄や三味線に、何とかして胡弓を合わせられないだろうか、と研究を重ねた結果、今日のような形となった。八尾が芸人の町だったことも、おわらの発展に寄与している。

「胡弓」を作る

 「胡弓」といえば、「おわら節」には欠かせない楽器である。しかし、現在奏することが出来る者はごく少数で、八尾全体でも20人程度。製作者ともなると、その工法の難しさからか、県内でも数えるほどしかいない。
 昔から、胡弓の奏者は楽器を自分で作ったもの。弾くときも昼と夜、内と外、民家と集会場とでは音が違う。環境に応じて楽器を弾き分けることができなければ、自分の思ういい音が出ない。納得できないのは、自分が一番よく知っている。
 それで胡弓を弾くなら弓から作りなさいといわれている。「弘法は筆から作る」のである。
 「胡弓」の澄んだ音を出す弓には、良い音色を奏でるために真っ直ぐな竹が必須だ。
 弓は氷見産の孟宗竹が最適とされている。また、竹の採取時期とも無関係ではなく、竹の子から4年たった竹で10月1日〜25日に採るものが、水分を含まず、歪みが生じないという。さらに、工法にも様々な工夫がされている。薄く切った竹を5〜6枚接着剤でつないだり(矯正のためもある)、上下性質の異なるものを使ったりする。白くて柔らかい竹は低音が利くそうだ。
 駒についても、黒檀、紫檀、いろいろ試したけれどやはり竹に戻るという。柔らかくても固くても駄目。あの薄い駒を作るにも、竹の性格を読み、張り合わせ、削って、磨いて、厚さを調整して、あの形になる。極めれば美しい。
 部屋の隅に200年前の竹がある。旧家の藁屋根を押さえていた竹を解体するとき貰ってきて、洗って、磨いた。飴色の何とも言えぬやさしい竹になって、弓になるのを待っている。
 楽器もおわらの踊りと同じで「いい音」を求めて進歩している。

おわらを盛り上げる人々

 おわらの時期が近づくと、八尾全体が次第に盛り上がりを見せていく。
 「唄い手」「囃子方」「太鼓」「三味線」「胡弓」のそれぞれがおわら節独特のハーモニーを奏で、「踊り手」はそれに合わせ町中を踊り歩く。
 楽器の奏者は、三味線を除き少数派で「唄い手」も良いところ寿命10年という。「囃子方」はコンダクター。独特の節まわしや唄や踊りの知識も必要とあって、誰にでもできるものではない。付け焼き刃的にいくら知識ややり方を習得しても、独特の音や情緒は醸しだせない。長年、八尾の土地に住まい、そこで生活し、八尾というものが体に染みついて初めてそれができるという。