雑煮の由来
元来は武家社会における料理であり、餅や野菜、乾燥食品などを一緒に煮込んだ野戦料理だったのでは無いかと考えられている。正月に餅料理を食する慣習は古代より「歯固」の儀式と結びついた形で存在しており、それと関連して発生したと見られている。雑煮は元は烹雑(ほうぞう)と呼ばれていた。室町時代に書かれた『鈴鹿家記』に初めて「雑煮」という言葉が登場する。
この料理が次第に武家社会において儀礼化していき、やがて一般庶民に普及したものとみられる。本膳料理においては最初に雑煮が出され、武家社会における饗宴には欠かす事のできない料理であったと見られる。
江戸時代、尾張藩を中心とした東海地方の諸藩では、武家の雑煮には餅菜と呼ばれる小松菜の一種のみを具とした。餅と菜を一緒に取り上げて食べるのが習わしで、「名(=菜)を持ち(=餅)上げる」という縁起担ぎだったという(上記の習わしが武家社会一般の作法だったという説は、誤伝による俗説)。
これに対して民俗学の観点からは、こうした考え方を強く否定する考え方が出されている。これは、餅を主体とする雑煮は近世以後に全国的に普及したもので、それ以前においては民衆社会に根ざした正月用の儀礼料理であり、餅主体の雑煮は畿内周辺にしか存在しなかったとするものである。
古来においては一日は夕方から始まるとする風習があり、元旦は大晦日の夕方から始まると考えられていた。大晦日の夕方に神仏に供えた餅や飯を日の出後に降ろして、具材を加えて煮た物が雑煮のルーツとされている。
また近世以前においては、「餅なし正月」と呼ばれる、正月三箇日に餅を神仏に供えたり食することを禁忌とする風習が、畑作地帯を中心として広く存在していたことも指摘されている。こうした地域は関東・中部・中国・四国地方などに広がっており、その多くはかつては水田を作るには不適当であったため、米以外の作物で定畑や焼畑を行っていた地域とされている。これらの地域では、米及びそれを原料とする餅は自己の土地からは生み出されない外来の食物であり、神仏に土地の豊饒を願う儀式の場において、こうした外来の食物を用いることは禁忌であったと考えられている。こうした地域は、蕎麦や里芋などの自己の土地から産する作物を神仏に捧げ、またこうした食材を主体として雑煮などを作っていたと考えられており、今日でも「餅を使わない雑煮」を作る地域には、かつてそうした禁忌のあった地方が含まれていると考えられている。また、東北や九州では、正月に餅を食する習慣が成立したのは時代が下ってからと考えられており、それらの地域を除くと、餅を主体とした雑煮が食されていたのは畿内周辺及び地方の米作地帯に限定されることとなる。
こうした風習に代わって餅を主体とする雑煮が全国的に広がっていく背景には、交通や情報伝達の発達もさることながら、石高制に基づく幕藩制による米の生産への政治的・経済的な圧力が畑作地帯を含めて加えられ、実際に灌漑設備の整備や新田開発によって、こうした地域も米作地帯に転換していった影響が大きいとされている。