川中島古戦場

2009年10月04日

川中島古戦場 八幡社

御祭神 譽田別尊 建御名方命
この神社は八幡社といい、これより先は武田信玄が陣構え、御加護を仰いだ八幡大神を奉斎する神社の神域となり、正面手前が旧社殿(鞘堂)、奥が現在の神殿であります。
また昔よりこの辺一帯をこの神の御名に因んで八幡原と称しております。
先ず御神前にお進みになりましたら、御祈願の上、二礼二拍手一拝の作法でお参り下さい。尚、この神社は、小島田町田中、野田地区の氏子の皆様により大切にお護りされておりますので、神域での飲食物、空缶、タバコ等の投げ捨ては、固く御遠慮下さいますようお願い申し上げます。
(看板資料より)

川中島古戦場八幡原
川中島合戦は今から400年前、天文22年より永禄7年に至る12年の永きに亘って行なはれたが、後世広く伝えられている川中島合戦は永禄4年の戦いを指している。
この戦は越後の雄将上杉謙信、甲斐の智将武田信玄がここ川中島に雌雄を決せんと武田勢は八幡原に、上杉勢は妻女山に陣をとり、両軍併せて3万3千余、9月10日未明の霧深い中で信玄の「鶴翼」の配備と謙信の「車懸」の攻撃で双方死斗を盡し、ここ八幡原は大修羅場と化した。
その中にあって、謙信は只一騎愛刀「小豆長光」を振りかざし武田の本陣に切り込み不意を突かれた信玄は軍配で謙信の太刀を受けたという有名な「三太刀、七太刀」も此の処である。時に信玄41才、謙信32才であった。
この戦で死傷者7千を数え史上最大の激戦で両将の決戦場ここ八幡原に現存する土盛りの跡は、武田本陣桝形陣地で当時の一部を物語っている。
両将の戦術は幾多の戦術研究の指針とし、現代戦にも多く応用されたと聞く。
武田の居城海津城は東南四粁の松城に、またョ山陽の「鞭声粛々夜渡河」で有名な雨宮渡は東側を流れる千曲川の上流約六粁の地点である。
(看板資料より)

八幡原本陣再現
ここ八幡原史跡公園は、永禄4(1561)年の第四次川中島の戦いで、武田信玄の本陣がおかれた場所とされています。信玄は、高坂昌信(春日虎綱)率いる別働隊を、上杉謙信が篭る妻女山に向かわせ、別働隊に背後を突かれて追われてくる上杉軍を挟み撃ちにするため、この八幡原に本陣を敷いて待ち構えていました。後世、啄木鳥戦法と呼ばれるこの作戦は、大河ドラマ「風林火山」の主人公・山本勘助の発案であったとされています。しかし、信玄の動きを見抜いた謙信は、夜陰に紛れていち早く妻女山を下ったため、9月10日朝、信玄の本隊は別働隊の到着を待たずに上杉軍との戦端を開きます。激戦のさなか、謙信が信玄の本陣に攻め込み、信玄に向かって三太刀斬りつけ、信玄は床机にすわったまま軍配でそれを受けたとされる「信玄・謙信一騎討ち」の伝説もこの戦いで生まれました。
(看板資料より)

早朝に川中島古戦場の前を通過したので少し立ち寄ってみました。基本的に以前と変わった様子はありませんでした。大河ドラマ「風林火山」による影響かもしれませんが看板が少し変わっていました。


2003年08月15日
大雨の天気予報にもかかわらず、川中島古戦場付近の史跡探索に来ました。朝4時ころには松代PAに着きましたが川中島古戦場の駐車にはまだ入れなかったので外に車を止めて見ることにしました。私は何度も来ていたのですが今回同行してくれたコック長殿は初めてだったので一通り見ることにしました。今回、「風林火山」旗と、「毘」「龍」の旗の看板に初めて気がついたので写真を撮ってきました。


【「風林火山」の旗】
武田軍の軍旗であるこの旗は、別名「孫子」の旗ともいわれ、もともと鮮麗な紺色の絹布に金泥で書いたもので、字句は兵法の聖典「孫子」の一節で、武田氏の菩提寺恵林寺の禅僧快川招喜(かいせんしょうき)の筆になるものである。
「疾きこと風の如く、徐かなること林の如く、侵略すること火の如く、動かざること山の如し」
これは合戦にのぞみ、軍隊とはかくあるべきことを教えたもので、孫子の研究者として戦国時代の最高峰といわれた信玄の軍隊運用術でもあった。
武田軍の軍旗としては、このほかに「南無諏方南宮法性上下大明神」の旗があり、「風林火山」の旗と共に武田軍の象徴である。
(看板資料より)


【「毘」「龍」の旗】
上杉軍の軍旗で、「毘」は上杉謙信が信仰した毘沙門天を意味し、戦場にこの旗と共にあることは毘沙門天と共にあり、その加護のもと上杉軍将兵は勇往邁進し、水火も辞さない勇気を示したといわれる。「龍」は乱れ龍を意味し、突撃の時まっ先に押し立てて進んだ「突撃用軍旗」である。永禄4(1561)9月10日の川中島合戦もこの旗で火蓋が切られたのである。謙信自らの信仰心に発する「毘」の旗と共に、この旗は上杉軍の勇猛果敢さを象徴し戦わずして敵の恐怖心を誘発したといわれる。
(看板資料より)


2003年05月25日

 

武田信玄

上杉謙信

永禄4年の合戦
川中島古戦場、すなわちここは永禁4年の第4回川中島合戦のときに武田信玄が八幡原で本陣を構えた伝承のことである、啄木鳥戦法の信憑性を疑って、実は通説でいわれているような川中島の合戦は行われず、武田軍は自軍を二手に分けて一方は信玄、他方は長男である太郎義信を大将として戦ったのではないかとの説をどこかの本で読んだことがあります。海津城から妻女山に向けて別働隊を動かすことなどできず、俗にいわれている川中島の合戦の詳細な軍隊の動きの様子は甲陽軍鑑が勝手に作り出した机上のものであるとの説に、私も半分そうかもしれないと思ったりもしていたのですが、実際に八幡原に武田信玄の本陣跡があってそこには土塁もあったので、ひょっとしたら本当に甲陽軍鑑のような合戦が起きていたのかもしれないとふと感じたのでした。もちろん本陣跡も後でつくられたものかもしれませんが、しかし少なくともここで大規模な合戦が行われ、大勢の人が死んだことは間違いないのだと思いました。


 

首塚

この塚は以前は屍塚(かばねつか)と呼ばれ、永禄4(1561)年9月10日の戦いの後、武田方の海津城主高坂弾正が激戦場となったこの辺り一帯の戦死者(6千余人)の遺体を敵味方の別なく集め、手厚く葬った塚の一つである。
これを知った上杉謙信は大変感激し、後に塩不足に悩む武田氏に対し、「われ信玄と戦うもそれは弓矢であり、魚塩にあらず」と直ちに塩を送り、この恩に報いたといわれている。このことが乱世に咲いた美学と褒め称えられ、「敵に塩を送る」という言葉が生まれたといわれている。
ここから東南へ180mのところにも同じく大きな首塚がある。昔はこの付近にいくつもの首塚があったが、現存する大きな塚はこの二つだけであり、小さな塚は各所に点在している。
(看板資料より)


逆槐(さかさえんじゅ)

山本勘助等の進言による「キツツキ戦法」の採用を決定した武田信玄は、永禄4(1561)年9月9日夜、ここ八幡原に上杉軍挟撃の陣地を構えた際、この場所に土塁を積みかさね、矢来を組み、盾をめぐらして本陣をおいた。このとき土塁の土どめに自生の槐(えんじゅ)の杭を根を上にして打ち込んだのが芽を出し、その後約400年を経てこの巨木に生長したものと伝えられている。
周囲に低い土塁のあとが見えるのは、信玄本陣を示す桝形陣形跡である。
(看板資料より)

 



2000年07月20日


執念の石
武田・上杉両軍三万余の死闘を展開した川中島合戦の最中、作戦の失敗から緒戦の劣勢を余儀なくされ、身辺が手薄となった武田信玄めがけて切り込む上杉謙信の鋭い切っ先に、あわや信玄も八幡原の露と消えようとした間一髪、武田軍の原大隈が傍らにあった信玄の持槍、青貝の長柄を取って馬上の謙信めがけて冗一槍にと突き出した。苛立った槍は鎧の肩の上にそれ、残念なりと返す槍で謙信の鎧の肩を斜右上から力いっぱい打ったので、馬は驚き跳ね上がってその場を狂奔し去ったため、信玄は危うく虎口を免れることができた。一方謙信を取り逃がし、無念やるかたない原大隈は、傍らにあったこの石を槍で突き通したといわれる。
(看板資料より) 


三太刀七太刀之跡
謙信は乱戦で武田本陣が手薄になったのを見て、旗本数騎をつれ信玄の本営を強襲した。馬上より流星一閃、信玄は軍配で受けたが、続く二の太刀で腕を、三の太刀で肩に傷を負った。後でこの軍配を調べたところ刀の跡が七ヶ所もあったといわれ、この一騎打ちの跡を世に三太刀七太刀の跡という。
(看板資料より)