勝頼、天目山へ

かつより、てんもくざんへ



武田勝頼は新府城を築き、天正9年(1581)古府中から家臣共々ここに移り、対織田信長の備えとした。
しかし、姉婿の信濃福島城主木曽義昌が織田方に寝返り、勝頼は伊那口の防備を固めるが、進撃を開始した織田軍になす統べなく、ほとんどの城が戦うことなく織田軍の手に渡っていった。
唯一伊那路で壮烈な抵抗を示したのは高遠城であった。天正10年2月、勝頼の弟仁科五郎盛信、副将小山田備中守昌辰ら守りの兵は織田軍総攻撃により壮烈な戦死を遂げた。
包囲網が狭まっていくなかで、勝頼は郡内の小山田信茂の意見をとり、大月の岩殿城に籠城することに決め、天正10年3月3日朝、わずか60日余りしか住まなかった新府城に火を放ち、岩殿城へ向かう。
700名余りの武士、女子供らを従え、わずか1日で甲府盆地を走り抜け、柏尾大善寺へと到着する。

〜大善寺〜


勝沼氏館から少し東にある古刹で、本堂は国宝に指定されている。
武田氏との関係も深く、鎌倉時代から甲斐守護武田氏は祈祷を命じたり、陣をかまえたり、寺領を寄進したりしている。天文9年(1540)の大風によって本堂の屋根が吹き飛ばされるなど大きな被害を受けたとき、信玄も修復の援助をしている。
天正10年3月3日夜、勝頼一行はここに宿泊するが、境内に庵を構えていた勝沼信友の娘といわれる理慶尼(りけいに)が一行を出迎え、厚くもてなしたという。この理慶尼が書いた「理慶尼記」は別名「武田勝頼滅亡記」と呼ばれ、勝頼の最後の様子を叙事詩的に描いており、現在大善寺に写本が残されている。

【左】大善寺山門  寛政10年(1798)に再建されたもの。


<場所> 山梨県東山梨郡勝沼町勝沼
<行き方> 国道20号柏尾信号を東へ約500m左側
<駐車場>: 10台
<撮影日> 2003年12月



【左】本堂  徳治2年(1307)頃には完成したといわれる。造営期間23年に及ぶ大工事であった。
東日本随一の鎌倉時代和様建築といわれる優美なたたずまいである。


【左】理慶尼の墓  本堂の東側50m程の所にある。
彼女は勝沼氏が永禄3年(1560)信玄に謀反のかどで滅ぼされた時、嫁ぎ先から離縁され、世の無常を観じて大善寺の慶紹をたより尼となり、寺の中に小さい庵を建てて住んだ。
かつて自分が武田氏によって滅ぼされた勝沼一族の者であり、その武田氏が目の前に現れた時の痛ましい姿を見て歴史の移り変わりの激しさに息をのんだという・・・

〜鳥居畑古戦場〜

大善寺から甲州街道を東へ進むと日川の渓谷は狭まっていき、史跡や伝説が多くなる。
「理慶尼記」によると3月4日には笹子峠の登り口の駒飼に着いたとあるが、実際には日付も場所も定かではない。
いずれにしても郡内岩殿城へ勝頼を迎え入れる為の準備といって、先に行った小山田信茂は待っても迎えをよこさず、3月9日の夜に、ひそかに人質を奪って逃げ、勝頼一行に鉄砲を撃ってきたので、そこで勝頼は謀反を知ったとある。
やむなく勝頼は武田氏ゆかりの天目山へ向かって日川渓谷沿いに田野という村落まで登っていった。
ここ鳥居畑古戦場は3月11日早朝、山麓より織田信長の先鋒滝川一益、河尻鎮吉らの軍勢約四千に追撃され、激戦を交えた場所といわれる。

<場所> 山梨県東山梨郡大和村田野
<行き方> 国道20号勝沼より景徳院入り口信号を左折
景徳院手前100m、日川の橋を渡った所右側
<駐車場>: 路駐 もしくは100m先に駐車スペース有り
<撮影日> 2003年12月



現在ここには供養碑が建っている。すぐ先には景徳院があり、静かな山間地である。
右写真の奥が天目山方面。


〜土屋惣蔵片手切〜

織田軍の追っ手を逃れ勝頼一族は田野より先の天目山目指し進んで行ったが、織田軍に行く手を阻まれ先に進むことができなくなり、田野まで引き返した。
この時、家臣土屋惣蔵昌恒は崖道の狭い場所で岩角に身を隠し、片手は藤蔓につかまり、片手には刀を持ち、敵兵を次々に切っては谷川に蹴落としたと伝えられている。
これにより勝頼たちは田野まで戻ることができ、自刃したという。
このような伝説から「土屋惣蔵片手千人切」といわれている。

<場所> 山梨県東山梨郡大和村田野
<行き方> 景徳院からさらに登って、竜門の滝の先約200m左側
<駐車場>: 路駐 もしくは100m先に駐車スペース有り
<撮影日> 2003年12月




石碑と案内板が道路脇にある。現在は舗装道が通っているが、昔は人と馬がなんとか通れるくらいの道幅の崖道だった。案内板に大正時代のこの場所の写真があり、勝頼がいた当時の雰囲気を感じ取れる。
川上(天目山方面)から攻めて来たのは織田軍なのか、武田軍の寝返った者たちなのか定かではないが、勝頼の首を取って手柄を立てようとひしめいて迫ってきたのであろう。日川の川上と川下からの敵を側近の家臣たちが防いでいる間に、勝頼は夫人、嫡男信勝らとともに自刃していった。


〜景徳院〜


徳川家康がこの地に勝頼の菩提所の創建を命じ、天正16年に完成したのが田野寺で、現在の景徳院である。
伽藍は何度か火災に遭い、最も古いものは安永8年(1779)建立の山門(左写真)である。境内は武田氏最後の地として県史跡となっている。

<場所> 山梨県東山梨郡大和村田野
<行き方> 国道20号景徳院入り口信号入って約1.5q先右側
<駐車場>: 境内に約6台 他に総門の道向かいに大駐車場あり
<撮影日> 2003年12月



天正10年3月11日、新羅三郎義光以来28代495年の武田家の歴史はここに終わりを告げた。
勝頼37歳、夫人19歳、信勝16歳であった。




【左】景徳院本堂前にある旗竪松
勝頼は最後に信勝に対して武田家累代の重宝「御旗」を大松の根元に立て、「楯無の鎧」を着させて、甲斐源氏の伝統ある古式にのっとって、「かんこうの礼」を執り行ったという伝説がある。

【左上】甲将殿  勝頼、夫人、信勝の影像を祀る。
【右上】勝頼、夫人、信勝の墓  甲将殿の裏に200年遠忌を期して、安永4年(1775)に建てられた。写真中央が勝頼、手前が信勝、奥が夫人。さらに両側には殉難者を祀っている。


【左上】勝頼生害石  【中上】夫人生害石  【右上】信勝生害石
甲将殿の前の広場には三人が自害したと伝えられる平らな大きい石が三つあり、それぞれ生害石と名付けられている。
勝頼の最後については様々な伝説があり真実はわからないが、離反者が相次ぎ、ここまで勝頼に付き従ってきた家臣たち約50人という悲しい最後は物語として格好の材料となったであろう。


【左】首洗い池
現在は池は無いが、ここの湧き水で勝頼の首を洗ったという。
景徳院の入り口、総門の脇の沢に小公園があり、この上に案内板がある。この道を左へ巻くように登ると景徳院の駐車場に出る。


〜栖雲寺〜

日川渓谷のさらに奥へと進み、木賊(とくさ)の集落にあるのが天目山栖雲寺である。武田氏の招へいにより業海本浄が貞和4年(1348)に開いた。中国の杭州天目山で修行した業海が、地形が似ているということで命名したという。
勝頼滅亡時には、追走する織田軍の兵火によって焼失したが、創建当初の文化財も多く残される。
ここには武田信満の墓と伝えられる宝篋印塔がある。

<場所> 山梨県東山梨郡大和村木賊
<行き方> 景徳院からさらに上流へ約4q左側
<駐車場>: 栖雲寺看板から50m先右側5台
<撮影日> 2003年12月




【左上】庫裏
文禄元年(1592)建立と推定されている。最近解体修理が行われてきれいな姿が見られる。

【左】庭園
庫裏の右手裏山にある。花崗岩の大きなものがゴロゴロしている。庭園自体が2ヘクタールもあるそうで、磨崖仏も見られる。
当時はここで禅僧が修行をしたとの事。


武田信満の墓
応永23年(1416)上杉氏憲(禅秀)の乱があり、舅であった甲斐守武田信満は氏憲に加担し、都留郡で戦ったが、多勢に無勢で敗れ、応永24年2月6日天目山にて自害した。
高さ約1mの宝篋印塔で、周囲に家臣の塔が囲んでいる。


栖雲寺より田野方面の眺め
勝頼は先祖の武田信満が自害した、ここ天目山を死地と定めて登ってきたが、その願いもかなわずに田野にて最後を迎えたのである。
遠くの山々の向こうに富士山が見える。
 勝沼氏館跡へ