小山田信茂の「決断」〜武田家を棄てて郡内を守る

中世に郡内(現在の山梨県東部一帯)を統治した小山田氏は、武蔵七党の一つである秩父党の流れをくむ名門の一族である。
もともと小山田氏は、武蔵国小山田荘(現在の東京都町田市)を本拠としていたが、建久3年(1192)に小山田有重の三男・行幸が父が持っていた甲斐国田原郷の荘官職を譲り受け、移住した(参考:小山田城址
これが郡内小山田氏の創始となる。

時代は下って、室町時代の明徳年間(1390〜1393)における郡内小山田氏の当主は、弥次郎信長といった。
この人物は桂林寺を創建する一方、甲斐武田家当主の武田信満と婚姻を結び、協調路線を強化した(この当時の小山田氏と武田氏は対等関係だったと考えられている)。
小山田弥次郎信長と武田信満は、禅秀の乱においても共同戦線をはり、猿橋で関東公方・足利持氏と戦っている(参考:激戦!猿橋の合戦〜足利持氏に対抗した武田信長の生涯)。

さらに時代は下る。
武田信満の曾孫にあたる武田信昌は、長男の信縄を疎んじ、その反面、次男の油川信恵を溺愛していた。
やがて信昌は信縄を廃嫡して信恵を後継にすることを模索するが、その企てに危機感を感じているものがいた。
それは信縄の長男にあたる信虎(信玄の父)であった。
弱冠15歳の信虎は、永正5年(1508)に小山田氏当主の越中守信有と結託し、奇襲を仕掛け、信昌の企てを未然に防いだ。
武田氏当主となった信虎は、小山田越中守信有との関係を強化し、自らの妹を信有の嫁に送り出した。
実際に越中守信有は文武に優れた人物だったようで、長生寺や円通寺の再興などの内政、駿河今川家との和睦などの外交にも力量を発揮した。
信虎の信任が篤かった越中守信有は、天文10年(1541)に54歳でこの世を去った。
やがて、信虎は長男・晴信(後の信玄)のクーデターによって甲斐を追われた。

越中守信有の跡を継いだ出羽守信有(父子同名)も父に負けず劣らずの文武両道の人物であったようで、土地が痩せており、米の収穫量が乏しい郡内の地域性を鑑み、機織や養蚕など地場産業の興隆に力を注いだ。
その一方で、天文15年(1546)の信濃・志賀城攻めで戦功を挙げ、城主の笠原清繁夫人を褒美に得
この頃、出羽守信有は、先陣に加わって、投石隊や鉄砲隊を指揮することが多かったようである。
しかし、天文19年(1550)に村上義清の篭る戸石城を攻めた際に負傷し、その傷がもとで、天文21年(1552)、34歳の若さで死去したとされる。
なお、出羽守信有の頃から小山田氏は武田氏の臣下に類した立場になっていく。

その跡を継いだ小山田兵衛尉信茂は、まだ12歳であった。
ところが「カエルの子はカエル」とみなされたのか、信茂は早くから信玄に重用された。
信茂14歳の時には、北条氏政と信玄の長女(黄梅院)との婚姻のヒキメ役を仰せつかり、無事、大任を果たした。
信茂は、弘治3年(1557)の第三次川中島合戦で初陣を飾った後、永禄12年(1569)には信玄の命で手切れとなった北条氏政を攻め、甘里で北条氏照軍を撃破している。
またその戦争の最終局面にあたる三増峠の合戦では、先鋒を命じられ奮戦している。
内政においては、郡内織の保護や鉱山開発に勢力を注ぎ、その一方で富士講御師団による情報網を構築し、他国の動向を探った。

武田氏と小山田氏の運命は、天正3年(1575)に長篠合戦で武田勝頼が致命的な惨敗をしてから斜陽に入った。
それでも長篠合戦の後、天正4年(1576)に営まれた恵林寺における信玄の葬儀においては、勝頼・仁科盛信(勝頼弟)・葛山信貞(勝頼弟)に次ぐ4番目の席次をしめ、勝頼の信任も篤かったようである。
しかし、織田信長や徳川家康の巧妙な武田家家中の調略によって、もはや武田家の運命は尽きていた。

天正10年(1582)、その止めを刺すように織田軍や徳川軍は武田領への侵攻を開始した。
武田軍は離脱者が相次ぎ、自壊した。
女性を含めてわずか50名となった勝頼主従は、小山田信茂の進言に従い、岩殿城を目指して落ち延びようとした。
しかし、信茂は最終局面で武田家を見限った。
一説には笹子峠から勝頼一向に対して鉄砲を撃ちかけたとされ、最期の望みも絶たれた勝頼やその子・武田信勝は天目山田野にてその生涯を閉じた。

織田信長は、その後、信茂を甲府善光寺に呼び出した。
そして、主人を「裏切った不忠者」として、3月24日に信茂を処刑した。
勝頼が最期を遂げた日からわずか2週間後のことであった。
なお、信茂の夫人や子ども達は、松姫とともに八王子に逃れた(参考:信松院)。

小山田信茂は「武田勝頼を死に追いやった人物」として、現在では極めて悪評の高い人物となった。
しかし、勝頼に岩殿城への篭城を薦めた時点では、勝頼の叔父にあたる武田信廉や一条信竜、勝頼と最も仲の良かった従兄弟の武田信豊、御親類衆筆頭で義兄弟の穴山信君らは既に離反していた。
勝頼に救いの手を差し伸べたのは、小山田信茂と真田昌幸、そして越後の上杉景勝だけであったとされる。
苦渋の選択で最期の最期に武田家に背信したことが、信茂の後世の評判を決してしまったとすれば、貧乏くじをひかされたように思えてならない。