【浅利与一】 久安5年(1149)?〜承久三年(1221)

 

【生い立ち】
浅利与一義成。清光の十男として生れ、母は佐竹義業の女。

一説には、清光の十一男という資料もある。
当時、男の子が生れると、順番に、太郎・二郎・三郎・・十郎と名付ける風習があったが、十一男は、「余った一郎」で「与一」「余市」と付けたと言う。
ちなみに、那須与一も十一男であったらしい。

生年は定かでは無いが、法久寺の位牌にある没年「承久三年(1221)9月7日逝年七十七歳」とあり、逆算すると、久安5年(1149)となる。

 

清光光長(逸見・太郎)
――信義(武田・太郎) 武田氏へ
――遠光(加賀美・次郎)小笠原氏・南部氏へ
――義定(安田・三郎) 安田氏・保田氏へ
――清隆(平井・四郎)
――|   頼朝挙兵時に平家方として大場三郎の軍に属し、
――|   治承4年8月23日、早川の合戦で討死。
――義長(河内・五郎)
――|   平家追討の功で対馬守に任ぜられた。
――玄尊(曽根氏)
――義行(奈胡・蔵人)
――義成(浅利・与一)
――|   弓の名手で、那須与一、佐奈田与一とともに「三与一」の一人であり、
――|   壇ノ浦の合戦で有名を馳せた。
――|         
――信清(八代・与三)
――義氏(利見氏)
――長義(田井氏)
――道光(修理亮)
――光賢(修理亮)

 

【一族と勢力範囲】
浅利氏の姓は、青島荘浅利郷(現豊富村浅利)に居館を構えたことによる。
「平家物語」には、弓(遠矢)の名手として、「吾妻鑑」には、頼朝の臣下として、たびたび登場しているが、呼び名が画一ではない。

「平家物語」・・・阿佐里与一
「吾妻鑑」 ・・・浅利冠者遠義、浅利冠者長義、阿佐利冠者長義、阿佐利與一義遠
「尊卑文脈」・・・義成(号浅利与一)
「甲斐国志」・・・浅利与一
「境川村・八幡神社棟札」・・与一能成
「大聖院位牌」・・浅利前出羽守儀成

文治五年(1189)奥羽合戦ののち、与一は源頼朝から陸奥国比内地方の地頭職を宛行われた。
浅利氏が比内地方に定着した時期は明かではないが、鎌倉後期には浅利氏の庶流が比内に移住していたものと思われる。その為、浅利氏の足跡は東北、特に秋田方面に多く見る事が出来る。
そして、甲斐においては、与一以後の浅利氏に関する記述は、戦国時代になるまで殆ど見受けられない。

墓は山梨県中央市(旧豊富村)大鳥居1621 の飯室山・大福寺にある。

 

【活 躍】
「平家物語」に見える浅利与一

源平最後の合戦・壇ノ浦の戦いで、与一の活躍が以下のように記されている。

弓に自信のあった和田義盛は、自分の名前をつけた矢を、平中納言知盛の船に射った。
そして、「平家方に射返すほどの者がいるならば、射返して頂こう」と叫んだ。
矢の長さは、十三束ニ伏である。
平知盛は、伊予国住人・新居紀四郎親清に射返す事を命じた。
親清の矢は、かるがると、義盛より後方へ届いた。
これを見た周囲の軍勢は、「義盛も、とんだ恥をかいたものだ」とわらった。
そして今度は、親清から、自分の名前を書いた十四束三伏もある矢が、三町も先に射かけられて来た。
そして、義盛と同じように、「その矢を返して頂こう」と叫んだ。
義経は、後藤兵衛実基を呼んで、「我が軍に、これを射返せる者はいないか」と尋ねた。
後藤兵衛実基は、「甲斐源氏・浅利与一義成殿が弓の強さでは随一かと。」と答えた。
浅利与一を呼んだ義経は、同じ源氏の流れをくむ年上の与一に、丁寧な言葉で、
「向こうから射返せと呼んでおるが、そなたがやっては下さらぬか。」と尋ねた。
その矢を見た与一は、「この矢は、弱く短いので自分の矢を使います」と言い、
九尺の弓に十五束の矢をつがえ、四町先の船の舳先に立っていた新居紀四郎親清を射通した。
与一は、強弓・遠矢の名手で、ニ町先の走る鹿を外したことが無かったと言う。

一束(そく)は指4本の幅、一伏(ふせ)は指一本を伏せた幅を言う。
一町は、約109m、従って4町は約440mの相手を射た事になる。


「吾妻鑑」に見える浅利与一

文治5年(1189)から建仁元年(1201)の12年間に与一の名前は、下記の9回現われている。
@
文治5年(1189) 6月 9日;浅利冠者遠義として、鶴岡の供養の際、「後陣の随兵」
                有力御家人16人の内の一人。
A
文治5年(1189) 7月19日;浅利冠者遠義として、平泉討伐軍の頼朝「御共の輩」
                144人の武将の一人。
B
建久元年(1190)11月 7日;浅利冠者として、頼朝入洛時の「先陣の随兵」
                180人の内の一人。
C
建久ニ年(1191) 2月 4日;浅利冠者として、ニ所詣の「先陣の随兵」の
                30人の内の一人。
D
建久ニ年(1191) 7月28日;阿佐利冠者長義として、頼朝新亭完成時の御移徒の儀
                「後陣の随兵」8人の内の一人。
E
建久六年(1195) 3月10日;浅利冠者として、東大寺再建供養会で頼朝入洛時、岩清水
                八幡より奈良入りの際の「御随兵」123人の内の一人。
F
建久六年(1195) 3月12日;浅利冠者長義として、東大寺再建供養会の「後陣の随兵」
                15人の内の一人。
G
建久六年(1195) 5月20日;浅利冠者長義として、頼朝の天王寺詣の「後陣の随兵」
                26人の内の一人。
H
建仁元年(1201) 6月29日;阿佐利与一義遠として、板額御前を嫁にもらいうける。


「勇婦・板額」

歴史上、男を凌ぐ女傑として、二人の女性が挙げられる。
「巴御前か板額か」といわれた。
また鎌倉時代「一に板額、二に巴、三に更科」ともうたわれた日本三勇婦の一人ともいわれる。

巴御前は、木曽義仲の愛妾であり、頼朝軍との戦いにおいて、鎧を身につけ、馬に跨り、薙刀を持って戦っている。義仲最後の戦いである、近江・粟津ヶ浜では、五百の軍勢で、六千の甲斐源氏・一条忠頼軍に突撃し、最後の5騎に残った一人である。

板額は、越後国豪族・城四郎長茂の妹であり、城小太郎資盛の叔母である。
二代将軍・頼家の時、城小太郎資盛が鎌倉幕府に反乱を起した。
その討伐に向かった幕府軍の戦況が「吾妻鑑」の建仁元年5月14日に記載されているが、
そこに板(坂)額御前の戦い振りが描かれている。
そして、傷つき捕虜になった板額を妻に娶ったのが、浅利与一である

また、山梨県春日居町にある賀茂春日神社には板額が度々足を運んだと云う記録が
残っていて、板額が使ったという弓や長刀が所蔵されている・・らしい。(未確認)