現在の舞鶴城(甲府城)
ああ甲府城 唄 望月吾郎 |
1 天正春の 花吹雪 華やぐ宴の 宵に舞う 夢を奏でる 楽の音に 翼広げた 舞鶴の 姿凛々しき ああ甲府城 2 天守に秋の 月さやか 栄華の昔を 偲ばせる 恋も涙も 乱世の 運命はかない 舞鶴に 託す面影 ああ甲府城 3 吉保二代 今もなお 願いは遠き 郡山 明日に繋げて 燃え盛る 甲斐の篝火 舞鶴が 天に羽ばたく ああ甲府城 |
甲府城は、古くは甲斐府中城、一条小山城、舞鶴城、赤甲城などとも呼ばれていました。
天正10年(1582)甲斐国は戦国大名・武田氏の滅亡後、まず織田信長の領国となり、本能寺の変の後は徳川家康の支配するところとなりました。しかし、豊臣秀吉が天下統一をなしとげると、秀吉の命令により甥の羽柴秀勝、腹心の部下である加藤光泰らによって築城が始められ、浅野長政・幸長父子によって完成をみました。また、慶長5年(1600)関ヶ原の戦い以降は再び徳川の城となり、幕末まで存続しました。
甲府城は江戸時代の初めは、将軍家一門が城主となる特別な城でしたが、宝永元年(1704)時の城主・徳川綱豊が第5代将軍・徳川綱吉の養嗣子となり、江戸城西の丸へ移ると、この後に祖先が甲斐出身で側用人の柳沢吉保が城主となり、大名の城として最も整備され、城下町とともに大きく発展しました。しかし、吉保の子・吉里が大和郡山城主として転封された後は、甲斐国は幕府の直轄地となり、甲府城は甲府勤番の支配下におかれました。その間、享保年間の大火により、城の本丸御殿や銅門を焼失するなど、次第にその壮麗な姿は失われていきました。
明治時代になると、甲府城も廃城となり、明治10年前後には城内の主要な建物はほとんどが取り壊されました。まず内城全体が勧業試験場として利用されはじめ、さらに翌年、鍛冶曲輪に葡萄酒醸造所が設置されるなど、城郭としての機能は失っていきました。また、現在の山梨県庁が旧楽屋曲輪内に設けられ、中央線敷設に伴い屋形曲輪、清水曲輪が解体されるなど、さらに城郭が縮小され、現在では内城の部分のみが城跡としての景観を保っています。
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