津向の文吉

作詩 小林一雄 作曲 水野簾太郎

昭和50年代

唄 池谷喜一

1 祭囃子に 盆割でいり
  やくざ渡世の 男の意地で
  ご法度破れば 八丈送り
  津向からすも 泣き笑い
    
2 未練尽きない 恋しい女の
  後追う言葉が 心に沁みる
  残したおふくろ みくだり半の
  津向さらばよ 御用旅
  
 セリフ
  長々着たよ つむぎ橋
    今日は召し替え黄八丈


3 清水次郎長も 兄貴と慕い
  弱気を助けて 人望厚く
  文吉おじさん 子供もなつく
  世にも義侠の 親分さん
  
4 時は流れて 明治と変わり
  流人の暮らしも 二十と余年
  汚れた草鞋を 富士川棄てて
  津向文吉 男晴れ
  

津向の文吉伝
清水次郎長から「兄貴」と慕われ、土地の人からは「津向のおじさん
と崇敬された津向宮沢文吉は、西八代郡鴨狩津向村(現六郷町)に生まれた。
 思慮分別をまきまえ、知的なにおいを漂わせ、弱気を助けた義侠一筋の親分だった。嘉永二年鰍沢の出入りで浪人とはいえ武士の桑原雷助を殺害し、八丈送りとなった。セリフはその時書き残した俗謡だと言われている。
 明治元年帰国後は犯罪人の更正につとめた。稲葉元法相が「文吉は法務省の恩人だ」と放言し改めて世間にその名を印象づけた。
 明治十六年十一月十日七十三歳で逝去したが、同月十三日付け山梨日々新聞は「博徒の親分として隣国にまでその名をとどろかせた老侠没す」と、文吉の面目躍如たる三百字の記事を残している