須玉音頭

作詩・土屋 洋 作曲・石平三郎

唄 水上 清・林 恵子

1、馬頭淺草観音まつり 
  須玉自慢の 御柱
  ししく城跡の 古跡を偲び
  主と手をとり マダラ山マダラ山    
 *ソレ手拍子揃えて
    シャシャンガシャンと打ち
  須玉音頭で」一おどり 一おどり


2、すすき穂波の甲斐路を行けば
  男の子おどりで 雨を呼ぶ
  小暮まつりの 金山平
  須玉音頭の 遠ばやしばやし
 *繰り返し
  

3、湧いて流れるラジュウム湯さえ
  別れ惜しさに 霧となる
  夕日に映える 瑞垣山に
  通仙峡の 紅葉橋紅葉橋
 *繰り返し


4、家族揃って松茸狩りに
  功徳あらたか海岸寺
  田木と畑は 黄金の波よ
  須玉音頭で 栄えゆく栄えゆく
 *繰り返し 

 獅子吼城跡

 歴史  
別名「江草城」と呼ばれる獅子吼城の歴史は古く、城跡の東南に位置する見性寺の寺記に「鎌倉時代、元応ニ年(1320)五月四日夜、獅子頭にて信田小左衛門実正・小太郎実高討死」等の記述があり、城はそれ以前に機能していたと考えられる。 のち、武田信満の三男信康が江草氏を称し城を治めるが25歳にて没してしまう。以降、今井氏が獅子吼城を治め数代続くが、武田信虎が甲斐守護になった頃には栗原氏・大井氏らと結託して武田氏に反抗する。天文元年(1532)九月、信虎は3千の兵を率いて今井氏が篭る城を攻め、獅子吼城落城。今井氏はこの戦い以後、武田家に臣従することになる。

 天正十年(1582)武田家滅亡、直後に起こった本能寺の変により甲斐が空白地となると、徳川・北条 氏の甲斐争奪戦が繰り広げられる。世にいう『天正壬午の戦い』である。新府城に陣を構え徳川氏に対し、北条氏は若神子城に陣を構えてこの獅子吼城にも兵を配するが、九月初旬服部半蔵率いる伊賀組及び武田家遺臣の津金・小尾衆などに攻められ獅子吼城は落城。この戦い以降、北条氏は徐々に劣勢に陥り、十月には徳川氏と和睦して甲斐より撤退したという。

瑞垣山全景