【活 躍】
「平家物語」に見える浅利与一

源平最後の合戦・壇ノ浦の戦いで、与一の活躍が以下のように記されている。

弓に自信のあった和田義盛は、自分の名前をつけた矢を、平中納言知盛の船に射った。
そして、「平家方に射返すほどの者がいるならば、射返して頂こう」と叫んだ。
矢の長さは、十三束ニ伏である。
平知盛は、伊予国住人・新居紀四郎親清に射返す事を命じた。
親清の矢は、かるがると、義盛より後方へ届いた。
これを見た周囲の軍勢は、「義盛も、とんだ恥をかいたものだ」とわらった。
そして今度は、親清から、自分の名前を書いた十四束三伏もある矢が、三町も先に射かけられて来た。
そして、義盛と同じように、「その矢を返して頂こう」と叫んだ。
義経は、後藤兵衛実基を呼んで、「我が軍に、これを射返せる者はいないか」と尋ねた。
後藤兵衛実基は、「甲斐源氏・浅利与一義成殿が弓の強さでは随一かと。」と答えた。
浅利与一を呼んだ義経は、同じ源氏の流れをくむ年上の与一に、丁寧な言葉で、
「向こうから射返せと呼んでおるが、そなたがやっては下さらぬか。」と尋ねた。
その矢を見た与一は、「この矢は、弱く短いので自分の矢を使います」と言い、
九尺の弓に十五束の矢をつがえ、四町先の船の舳先に立っていた新居紀四郎親清を射通した。
与一は、強弓・遠矢の名手で、ニ町先の走る鹿を外したことが無かったと言う。

一束(そく)は指4本の幅、一伏(ふせ)は指一本を伏せた幅を言う。
一町は、約109m、従って4町は約440mの相手を射た事になる。


「吾妻鑑」に見える浅利与一
文治5年(1189)から建仁元年(1201)の12年間に与一の名前は、下記の9回現われている。
@
文治5年(1189) 6月 9日;浅利冠者遠義として、鶴岡の供養の際、「後陣の随兵」
                有力御家人16人の内の一人。
A
文治5年(1189) 7月19日;浅利冠者遠義として、平泉討伐軍の頼朝「御共の輩」
                144人の武将の一人。
B
建久元年(1190)11月 7日;浅利冠者として、頼朝入洛時の「先陣の随兵」
                180人の内の一人。
C
建久ニ年(1191) 2月 4日;浅利冠者として、ニ所詣の「先陣の随兵」の
                30人の内の一人。
D
建久ニ年(1191) 7月28日;阿佐利冠者長義として、頼朝新亭完成時の御移徒の儀
                「後陣の随兵」8人の内の一人。
E
建久六年(1195) 3月10日;浅利冠者として、東大寺再建供養会で頼朝入洛時、岩清水
                八幡より奈良入りの際の「御随兵」123人の内の一人。
F
建久六年(1195) 3月12日;浅利冠者長義として、東大寺再建供養会の「後陣の随兵」
                15人の内の一人。
G
建久六年(1195) 5月20日;浅利冠者長義として、頼朝の天王寺詣の「後陣の随兵」
                26人の内の一人。
H
建仁元年(1201) 6月29日;阿佐利与一義遠として、板額御前を嫁にもらいうける。

「勇婦・板額」
歴史上、男を凌ぐ女傑として、二人の女性が挙げられる。
「巴御前か板額か」と言われ、

巴御前は、木曽義仲の愛妾であり、頼朝軍との戦いにおいて、鎧を身につけ、馬に跨り、薙刀を持って戦っている。義仲最後の戦いである、近江・粟津ヶ浜では、五百の軍勢で、六千の甲斐源氏・一条忠頼軍に突撃し、最後の5騎に残った一人である。

板額は、越後国豪族・城四郎長茂の妹であり、城小太郎資盛の叔母である。
二代将軍・頼家の時、城小太郎資盛が鎌倉幕府に反乱を起した。
その討伐に向かった幕府軍の戦況が「吾妻鑑」の建仁元年5月14日に記載されているが、
そこに板(坂)額御前の戦い振りが描かれている。
そして、傷つき捕虜になった板額を妻に娶ったのが、浅利与一である

人情与一太鼓

作詩 山本辰治 作曲 望月吾郎

昭和??年
 

 唄 神宮司治男

1 浅利男が 片肌いれて
  どどんと一発 撥入れりゃ
  荒くれ魂 気のむくままに
  富士を背中の 山育ち
  叩く与一の 叩く与一の
  捨て太鼓
    
2 樽の丸さを 矢撥の的に
  修行を積んだ 仮八幡
  八岳(やつ)の空風 褌ひとつ
  女嫌いは 生まれつき
  愚痴や情けじゃ 愚痴や情けじゃ
  叩けない

  
3 壇ノ浦から 男をあげて
  連れてきたのが 恋女房
  シルクを着せて 振袖も着せ
  これから御前を 抱いていく
  与一太鼓は 与一太鼓は
  二人永劫(みち)