甲府城恋唄

作詩 相川宝楽 作曲 蓮見珠夫

平成21年


唄 原 愛佳

1 みどりの風吹く 甲府の城に
  やさしくゆれてる 紅い花
  二人が暮らした この街あたり
  心に秘めた あなたはいない

 
2 桜吹雪の 信玄祭り
  青い背広に 白いシャツ
  君と出逢った この城あたり
  今日の祭りに あなたはいない
  
3 想い出せよと 白い雲
  映すお堀に 花が散る
  二人歩いた この城下町
  今の甲府に あなたはいない


4 いつか来ました 武田の杜に
  映す湖水に 影ひとつ
  別れたひとの あの面影を
  探す湖畔に あなたはいない

  

甲府城の歴史

甲府城は、古くは甲斐府中城、一条小山城、舞鶴城、赤甲城などとも呼ばれていました。
 天正10年(1582)甲斐国は戦国大名・武田氏の滅亡後、まず織田信長の領国となり、本能寺の変の後は徳川家康の支配するところとなりました。しかし、豊臣秀吉が天下統一をなしとげると、秀吉の命令により甥の羽柴秀勝、腹心の部下である加藤光泰らによって築城が始められ、浅野長政・幸長父子によって完成をみました。また、慶長5年(1600)関ヶ原の戦い以降は再び徳川の城となり、幕末まで存続しました。
 甲府城は江戸時代の初めは、将軍家一門が城主となる特別な城でしたが、宝永元年(1704)時の城主・徳川綱豊が第5代将軍・徳川綱吉の養嗣子となり、江戸城西の丸へ移ると、この後に祖先が甲斐出身で側用人の柳沢吉保が城主となり、大名の城として最も整備され、城下町とともに大きく発展しました。しかし、吉保の子・吉里が大和郡山城主として転封された後は、甲斐国は幕府の直轄地となり、甲府城は甲府勤番の支配下におかれました。その間、享保年間の大火により、城の本丸御殿や銅門を焼失するなど、次第にその壮麗な姿は失われていきました。
 明治時代になると、甲府城も廃城となり、明治10年前後には城内の主要な建物はほとんどが取り壊されました。まず内城全体が勧業試験場として利用されはじめ、さらに翌年、鍛冶曲輪に葡萄酒醸造所が設置されるなど、城郭としての機能は失っていきました。また、現在の山梨県庁が旧楽屋曲輪内に設けられ、中央線敷設に伴い屋形曲輪、清水曲輪が解体されるなど、さらに城郭が縮小され、現在では内城の部分のみが城跡としての景観を保っています。

 甲府城は明治に入り、徳川時代の面影を大幅に失うこととなり、残された城跡が明治37年(1904)に「舞鶴公園」として開放されました。
 昭和5年(1930)には、甲府中学校の移転に伴い、旧追手役所跡にあった県庁舎や県会議事堂が楽屋曲輪跡に移り、同時にその西側、南側の堀は完全に埋められました。その後、武徳殿(昭和8年)、恩賜林記念館(昭和28年)、県民会館(昭和32年)、議員会館(昭和41年)などが公園内に設置されました。
 昭和39年(1964)には都市公園「舞鶴城公園」として都市計画決定されました。最近では、舞鶴城公園整備事業が行われ、鍛冶曲輪門、稲荷曲輪門などの門や稲荷櫓が復元されました。