武田勝頼公

 天文15(1546)年、信玄公の4男として誕生。母親は諏訪氏の娘(井上靖作「風林火山」では「由布姫」として描かれている女性)。永禄5(1563)年元服し、諏訪四郎勝頼と名乗りました。武田家伝統の「信」の字をつけずに諏訪氏相伝の「頼」の字をつけたのは、いずれ勝頼公に諏訪氏を継がせる意図があったためと思われます。
 しかし、嫡男義信が信玄公の方針と対立して幽閉、病没するに至って、勝頼公は武田家の実質的な後継者となった訳でありますが、一度諏訪氏として家臣の列に加わっていたことが、家臣団の統制に微妙な影響を及ぼすことになります。そのため、信玄公は勝頼公の嫡男の信勝を武田家の跡目とし、勝頼公は信勝が当主となるまでの陣代に定めたともいわれています。
 ともあれ、信玄公没後、勝頼公は武田家の実質的当主として、信玄公の悲願であった上洛を目指し、積極的に軍を起こします。そして、新たに高天神城や明智城などを陥し、武田家の領土は信玄公の時代よりも拡大しました。しかし、天正3(1575)年、長篠の戦いで織田・徳川連合軍に大敗し、馬場信春、山県昌景ら宿老の大半を失って武田家の武運は急速に傾きます。以後、勝頼公は永年の宿敵であった上杉氏と結ぶなど守勢の挽回に努めますが、天正10(1581)年、織田の大軍が来襲すると、家臣の離反などが相次ぎ、ついに天目山にて非運の最期を遂げることになります。勝頼公の戒名は「法泉寺殿泰山安公大居士」。
               (写真は・勝頼公墓所)

              

勝頼慕情
勝頼公四百年祭

作詞 澤登初義  作曲 古谷 宏


昭和52年

唄 双葉百合子

1 緑ヶ丘の 法泉寺
  鳴くか山鳩 夢想の松に
  愛し武田の 勝頼桜
  武田若殿勝頼公
     ああ 勝頼慕情


2 京は六条 加茂河原
  忍び忍んで 快岳禅師
  お迎えしました ふるさと和田に
  武田若殿勝頼公
     ああ 勝頼慕情


3 星霜ここに 四百年
  姫もおわすか 信勝様も
  かおる香煙 苔むす五輪
  武田若殿勝頼公
     ああ 勝頼慕情

  法泉寺由緒

 後醍醐天皇の元徳2(1330)年、当時甲斐国主であった武田家第七代の信武公が、夢窓国師の高弟であった月舟禅師を招いて創建しました。従って、本来ならば月舟禅師が初祖となる訳ですが、禅師は自ら二世を称して、恩師の夢窓国師を開山としました。
 開山後は夢窓国師を中心とする五山派の官寺となり、室町幕府の保護を受けていたものと思われますが、応仁の乱以後幕府の勢力が衰えるとともに、五山派も著しく衰微し、以後武田信玄公が甲斐国主となるまでの約200年間の法泉寺の歴史は明らかではありません。
 五山派の凋落にとってかわって新しく発展したのが、妙心寺の関山慧玄(無相大師)らの流れを中心とする臨済禅でした。五山派が公家との交流に比重を移していったのに対し、関山派(妙心寺派)は伝統の修行を重んじ、武家の帰依するところが多かったため、戦国大名の勃興とともに、五山派の寺院は次第に関山派に変わっていき、法泉寺もその例外ではありませんでした。
 武田信玄公は、祖先であり「武田家中興の祖」といわれた信武公が開いたこの寺の伝統を守るため大修理を施し、寺領を寄進した上、甲府の東光寺、円光院、長禅寺、能成寺とともに「府中五山」のひとつに列しました。このため寺運はたちまち隆盛となりました。
 信玄公が世を去って後を継いだ勝頼公からも引き続き保護を受けましたが、長篠の戦い以後武田家は衰運に向かい、ついに天正10(1582)年、織田・徳川連合軍に追いつめられた勝頼公は天目山(現在の甲州市大和町田野)の地で自刃し、武田家は滅亡してしまいました。そして勝頼公の首級は織田信長の命で京都六条河原にさらし首となったのです。
 しかしこれを知った法泉寺三世の快岳禅師は、妙心寺の南化和尚の力を借りて、勝頼公の首級(歯髪ともいわれている)をもらい受け、法泉寺に持ち帰り手厚く葬ったのです。 織田信長が本能寺で非業の最期を遂げた後、武田家に代わって甲斐を支配した徳川家康公は、甲斐の内情に精通する快岳禅師を召し、当時まだ家康公に服従しなかった武川十二騎を説得するように命じました。そしてこれを果たした禅師の功績により、寺領として37貫5百文の御朱印を賜るとともに、勝頼公を中興開基として末永く菩提を弔うようご沙汰がありました。この時、家康公から賜ったと伝えられる鞍が今でも法泉寺に残されています。武田家と深いゆかりがある法泉寺ですが、家康公により勝頼公菩提寺としての地位を保障され、以来50年目ごとに大遠忌を執り行っています。
 江戸時代の寛永10(1633)年に妙心寺が幕府に提出した「寛永の末寺帳」によれば、法泉寺は甲斐国において末寺26ケ寺を有するとともに、甲斐国唯一の御朱印地であり54石の知行高があったことがわかります。歴代将軍から賜った朱印状の写しが今でも残されています。(原本は戊辰戦争の際に板垣退助により没収された)
 その後今日に至る時代の中で伽藍の規模は縮小しましたが、法泉寺の歴史は脈々と続いています。