雛鶴姫について

都留市旭区と秋山村無生野との境にその名もゆかしい雛都留峠がある。
この無生野にきわめて古くから伝承されている大念仏は、念仏のルーツでもあり、音楽的リズムとてんぽに乗せて踊躍する。南朝大塔宮護良親王・雛鶴姫・綴連王の菩提を弔うものであるといわれている。

護良親王は第96代後醍醐天皇の皇子で、大塔宮(だいとうの宮あるいはおおとうの宮)と尊称されたが建武中興の直後、父天皇とともに時の幕府と対立したため、足利直義(ただよし)に捕らえられ、建武2年(1335)鎌倉の牢で首をはねられた悲運の皇子であった。
 首をはねられた時の親王は、あまりの無念さから、刺客となった渕部義博(伊賀守)を睨みつけたまま死んでいったため、義博はその恐ろしい親王の首級を、足利直義の前へ差し出すことができず、牢獄の近くの竹薮に捨てて逃げ去ったといわれる。たまたまこれを知った親王の寵姫(南の方)の雛鶴姫(北畠親房の娘)が、数人の縦者とともにその首級を探し出して鎌倉を逃れ、相州(神奈川県)の河合を経て甲州秋山に入って桜井の裏山にある王沢で一休みしたあと、古福志の四ッ堂に7日間逗留し、そののち神野沼田から王野入屋敷を経て無生野へたどりついたといわれている。
 
 無生野へたどり着いたころ雛鶴姫は、すでに親王の御子を宿していてしかも臨月の身重であった。当時無生野には人家も少なく宿を乞う家も見当たらないまま、姫は権田橋のたもとで野宿中産気づいてしまったので、従者たちは近くの木の枝や葉を集めて産所をつくり、その中で王子を分娩した。その王子の名は綴連(つづれ)の王子といった。伝説では以上のような筋書きをたどっているが、その後の語り伝えにはいろいろの内容があって、
 1.難鶴姫は産後すぐ他界し、王子も間もなくはかない命を絶った。
 2.王子はしはらく生存したが幼児のうちに他界し、雄鶴姫もそのあと間もなく他界
  した。  
 3.姫は産後間もなく他界したが、王子ほ12〜3歳まで生存して他界した。

とまちまちであるが、いずれにしても土地の人たちは哀れな運命にさらされた姫と王子の霊を慰めるため、以来念仏講を立てて冥福を祈ったといわれ、これが無生野大念仏の起元になったといわれている。
 
秋山村に向って県道沿い雛鶴峠にさしかかったところに神社の入口があり、約500m入ると、山裾にある。
 祭神は、雛鶴姫命・神直天日命・大直天日命を祀り、祭礼は、4月20日に行なわれている。
 御神体は護良親王、雛鶴姫の守護神であった水神様の木像であると伝えられ、「弘仁9年(818)空海奉作之」と記してある。社の傍に姫を埋葬したという塚があり、また、雛鶴姫の供をした藤原宗忠、馬場小太郎二人の従臣のために植えられたという老松が2本あり、「お供の松」と呼ばれていたという。

  参考文献 山地悠一郎著 「護良親王の伝説」

雛鶴峠

作詞 沢登初義 作曲 古谷 宏
  
昭和47年          

唄 飯野のりこ


1 土の牢屋の 灯火消せば
  星の鎌倉 潮騒ばかり
  いとしい護良親王の みしるし抱いて
  行くか雛鶴 行くか雛鶴 
               雛鶴峠

2 なれぬわらじに 血潮がにじむ
  皇子を身ごもる 雛鶴姫よ
  おいたはしいぞえ 松葉にのせて
  超える時雨の 超える時雨の
                峠路七里

3 人の情けが 1あついと聞いた
  ここは甲斐国 秋山の里
  赤子が泣くのに 冷たい乳房
  鶴も鳴く鳴く 鶴も鳴く鳴く 
               雛鶴峠