江戸末期;天保から幕末にかけて、無宿者が溢れた感がある。甲州博徒の大物;“吃安”(どもやす)こと竹居の安五郎、その弟分で、常に次郎長の敵役として描かれた黒駒の勝蔵、幕府を震撼させた下総;勢力(せいりき)富五郎、武州石原村から現れたヒーロー;幸次郎、新撰組;伊東甲子太郎グループを支えようとした岐阜の水野弥三郎等々。彼らは、講談や浪曲の世界でヒーローとなったが、すべて実在の人物ではあるが、官軍正史には登場しない。つまりどこまでも稗史(はいし)のヒーローに過ぎないが、実は正史に登場する人物以上に華々しく、ダイナミックに生きたのである。歴史が生身の人間の営みを正しく描くものであるならば、稗史の登場人物を、稗史だからといって排除して歴史は成り立たないであろう。

甲斐国八代郡竹居村(山梨県笛吹市八代町)に生まれる。生家の中村家は名主を務めた家柄で、安五郎は4男。父の甚兵衛は無宿人を取り締まる郡中総代にも任じられている。天保8年(1837年)、村内における暴力事件をはじめ喧嘩や博打を繰り返し博徒となる。その後は上京し、嘉永2年(1849年)には兄に宛てた金銭の工面を依頼する書簡が残されている。

嘉永4年(1851年)、諸般の罪科により伊豆国の新島に流罪となるが、嘉永6年(1853年)6月6日、伊豆国を管轄する韮山代官所が黒船来航への対応で忙殺されている中、流人7人とともに島抜けを実行し、伊豆間宮村(函南町)の博徒大場久八の助力を得て甲斐へ逃げ帰った(久八と安五郎はともに郡内の人斬り甚兵衛の一家で渡世の修行を積んだ暖簾兄弟であったとされる)。その後は故郷竹居村を拠点とした博徒となるが、文久元年(1861年)に捕縛され、翌年に牢死する。享年52。生家の中村家には500点あまりの古文書群(中村家文書)が残されており、安五郎はじめ甲州博徒の動向についての史料となっている

嘉永六年(1853)といえば、黒船が来航した年である。ペリーが浦賀沖に現れたのが旧暦六月三日。その五日後の夜、伊豆七島;新島から七人の流人が「島抜け」を敢行した。島流しというと、八丈島ではないかと思われる方も多いだろうが、舞台は新島である。実は、新島も流人の島であった。「島抜け」は大罪も大罪である。歴史上、「島抜け」を成功させた流人は、ほとんどいないのではないか。ところが、この七人の「島抜け」は、大筋に於いてほぼ成功しているのだ。「七人の侍」「大脱走」The Great Escape)をミックスさせたようなこの「島抜け」を敢行したのは、以下の七人である。

武居村無宿     安五郎

大館村無宿     丑五郎

河内村無宿     貞

万光寺村無宿    造酒蔵

無宿        角蔵

岩槻宿百姓音五郎弟 源次郎

草加宿無宿入墨   長吉

安五郎以外は全員2030代の男たちで、どうやら実質的な首謀者は丑五郎、貞蔵、角蔵の三人、彼らは安五郎を頭目として担いだ。三人はまだ20代のチンピラである。博打であげられたか、義理が絡んだ出入り騒動でとっ捕まったか分からぬが、40代に乗った安五郎はこういう若造とは格が違う。武居の安五郎といえば、甲州博徒を代表する親分格の大物ヤクザである。そもそも、生家の格が違う。安五郎の生家;中村家というのは武居村の名主を務めたことがあるだけでなく、代官に代わって警察権を委任された「郡中取締」役に就いたことさえある“名門”である。社会秩序を殊更重視した江戸期という時代は、百姓にも多層な身分があり、厳然とした身分間差異が存在したことを知っておかれた方がいい。

首謀者三人は、若さ故の勢いはあったろうが、「島抜け」という大事を成功させるとなると、技量や決断力、統率力といった面で安五郎の経験に裏打ちされたリーダーシップを必要としたのであろう。

この「島抜け」の見事さは、その端緒に既に表われている。何と三人は、島役人に書置きを残したのである。「島抜け」という大罪を犯す罪人の、島役人、つまりは「お上」に対する挑戦状である。「書置申一札之事」と題されたこの書状は、

「私共義去年四月十五日より此度之一件相談合きまり〜」

と書き出し、安五郎に相談して賛同を得たこと、造酒蔵たちを連れて行くことなどを告げ、

「〜右之趣如斯ニ御座候  

六月今晩   丑五郎 貞蔵 角蔵

嶋役人(殿)」

と結んでいる。

今のヤクザとのインテリジェンスの差をお感じになることだろうが、中で通告されていることは無宿渡世の者らしい内容である。

要約すると、「島の百姓は、島抜けに必要となれば手当たり次第に人足として使うので承知されたい。また、市郎左衛門と弥次右衛門という者は、これまで我々流人に対して、身分も弁(わきま)えず不届きな行為が目にあまり、我慢の限界を超えたので見せしめとして討ち果たしていく。更に、抜船の相談をしてきたので、中には訴え出る者が間々あるものなので、そういう者も討ち果たしていく。お手数をお掛けするが、死体の後始末をよろしく」

というものである。

七人は、まず名主;前田吉兵衛宅を襲った。目的は、鉄砲である。新島は韮山代官の支配下にあるが、島には代官所の手付も手代も、本庁に当たる勘定奉行の配下もいない。つまり、島に武士は一人もいない。治安維持上の非常時に備え、神主;前田家と名主;前田家に鉄砲が下げ渡されていたのだ。七人は、名主;前田吉兵衛を殺害。備え鉄砲二丁を手に入れ、島民;市郎左衛門と喜兵衛を拉致。浜で源兵衛の持ち船を奪って、この船の船子であった拉致した二人にこれを操船させ、伊豆・網代方面へ向けて島を脱出した。すべてが計画的であった。

それにしても、伊豆へ向かう、それも網代へ向かうとは、捕縛されに行くようなもので、大胆不敵としか言いようがない。そこは、韮山代官のお膝元である。

新島の島役人が追跡のための「追船」を出したのは、翌六月九日。この日、ペリーが久里浜に上陸した。

ドモ安三度笠

作詩オマタハチロウ 作曲 久慈ひろし


 唄 美坂ひろ子

1 ドドの吃安どこへ行く
  足はサイコロ 風まかせ
  嘘をいえぬが玉にきず
 
 腕が三分で度胸が七分
  武居の吃安鬼よりこわい
  ドドド吃れば ドドド吃れば
  脇差が泣く
  
2 ドドの吃安 どこの人
  富士の聳えるその麓
  ここは甲州武居村
  前は笛吹川 流れも清く
  武居の吃安 生まれたところ
  二二二日本の 二二二日本の
  ど真ん中
  
3 ドドの吃安いい男
  野暮な野郎にゃ強いけど
  可愛いあの娘にゃチョイト弱い
  意地と人情の渡世の男
  武居の吃安 情にもろい
  ナナナ涙が ナナナ涙が
  ついほろり