ああ勝沼大善寺
 
作詞 澤登初義  作編曲 古谷 宏


昭和??年

唄 吉沢 浩

1 時は養老 菩薩は行基
  開きなされた 柏尾の山に
  紫玉捧げた お薬師さまが

  みのる勝沼 葡萄の甲斐を
  護る柏尾の 護る柏尾の 大善寺
  
2 時は 天正 嵐の弥生
  旗もぬれます 風林火山
   護らせたまえ 一門武田
  祈る勝頼 姫君さまを
  綴る涙の 綴る涙の 理慶尼記
  
3 時は流れて 一千余年
  昔を語るか 山時鳥
  諸願成就の 藤切り祭り

  燃ゆる思いに 手と手を合わせ
  祈る柏尾の 祈る柏尾の 鳥居焼

 

養老二年(AD718)僧行基が甲斐の国を 訪れたとき、勝沼の柏尾にさしかかり、日川の渓谷の大石の上で修行したところ、満願の日、夢の中に、右手に葡萄を持った薬師如来が現れました。 行基はその夢を喜び、早速夢の中に現れたお姿と同じ薬師如来像を刻んで安置したのが、今日の柏尾山大善寺です。
以来、行基は薬園をつくって民衆を救い、法薬の葡萄の作り方を村人に教えたので、この地に葡萄が 栽培されるようになり、これが甲州葡萄の始まりだと 伝えられています。

天下統一を競った武田信玄亡き後の勝頼は、織田、 徳川の連合軍の近代装備と物量の前に敗退し、天正十年(AD1582)三月三日、郡内の岩殿城で再興を図ろうと韮崎の新府城を出発し、途中この柏尾山大善寺で戦勝を祈願して、一夜を明かしました。
しかし、武田家再興がかなわないと見た家臣の大半は夜半に離散し、また、岩殿城主小山田信茂の裏切りに合い、勝頼主従は天目山を目指しましたが、織田、徳川の連合軍に行く手を阻まれ、ついに三月十一日、勝頼以下一族と家臣は自決し、新羅三郎義光以来五百年続いた甲斐源氏も滅亡しました。
その一部始終を目撃した理慶尼が記した理慶尼記は、また武田滅亡記ともいわれ、尼の住んでいたこの大善寺に今なお大切に保管されています。

理慶尼
享禄3年(530年)- 慶長16年8月17日(611年9月23日)

戦国時代の女性。甲斐武田氏の一族勝沼信友の娘。で、武田氏当主武田晴信(信玄)の従妹に当たる。俗名は松の葉、または松葉。勝沼信元、上野原加藤氏の名跡を継いだ

兄の信元は、永禄3年(1560年)の上杉謙信の関東侵攻の際、調略により武田氏に謀反を企てたが、のち謀反の証拠となる文章が発見されて、11月3日に武田信玄の命を受けた山県昌景に誅殺された。妹の松の葉は、雨宮織部正良晴(のちに景尚)に嫁していたが、雨宮家に累が及ぶことを懸念して離縁した。勝沼にある大善寺の慶紹を頼り、剃髪して尼となり理慶尼と号し小さな庵室を構えて暮らした。

織田信長の武田征伐が勃発すると、天正10年(1582年)3月3日、新府城から落ち延びた武田勝頼一行が大善寺に立寄る。勝頼は、兄の仇の子息ではあるが快く迎えて(織部正に嫁したのち勝頼の乳母となっていた)、同寺薬師堂に勝頼、勝頼夫人、武田信勝を迎えて理慶尼と4名で寝所を供にした。勝頼は、ここで家臣小山田信茂の裏切りを知り、天目山に向かっている。その後、武田家のことを物語調に『理慶尼記』(武田滅亡記、大善寺蔵)に書いている。理慶尼は、慶長16年(1611年)8月17日、大善寺で82歳で没している。また、大善寺に来た時、懐妊しており、子を産むが男女は不明。子孫は代々大善寺の近くにあったが、享保年間に絶えている。