ああ雨鳴城 |
1 香る松風 秋山に 建てしは 三階菱の旗 殿は源家の 光朝公 運命は悲し つたかずら 雨には今も 岩が泣く ああ岩が泣く 雨鳴城 2 姫は平家の 京の人 縁が仇の 鎌倉勢 義丹の滝の 水断ちぬ 人馬に注ぐ 米わびし 河鹿の岩に 月も泣く ああ月も泣く 雨鳴城 3 散るは紅葉か 虫の音か その名もゆかし 城山に 戦の跡よ ここかしこ 興亡ここに 七百年 昔を偲び ともに泣く ああともに泣く 雨鳴城 |
雨鳴城の歴史推考
甲府盆地のにし、櫛形山の麓、県民の森。伊奈ケ湖のほとりに
雨鳴城跡があります。
城主、秋山光朝は、甲斐源氏加賀美遠光の長子で、館を秋山
に構え、甲斐源氏の一族と共、甲斐に権勢を振いました。
光朝はしばしば京都に上り、左京太夫となり、従四位を賜り、
後に飛騨の守に任ぜられました。
平の重盛の六女茂子姫を妻に迎えましたが、これがもととなり
源頼朝ににらまれ、遂に鎌倉勢の攻めるところとなりました。
光朝は山塞のとりでを雨鳴山に築き、天然の要害、河鹿の岩に
築城して防戦しましたが、義丹の滝から引いた用水路を断たれ
てしまいました。
水のなくなった城中では、人馬に米を注いで水にみせるなど、
苦しい戦いをしましたが、戦我に利非ず、文治元年十一月十一日
、光朝は四十二才を一期として遂に雨鳴城で悲憤の自刃をし果
てました。
時うつり、世変り、ここに七百年の星霜を経ましたが、未だに残る語り草に「雨鳴城は雨に慟哭する」といわれています。