ああ遺髪塚

作詩 井口弘久 作曲 井口弘久


唄 飯野のりこ

1 暑さ厳しき なつの日に
  戦火を浴びる 学び舎に
  悲しく散りぬ わが友よ
  帰らぬ御霊 いま何処
  ああ ここに黒髪眠る 遺髪塚


2 桜ほころぶ 学び舎に
  胸おどらせ 青春を
  犯した日も 夢と消え
  戦の道の 生贄に
  ああ ここに黒髪眠る 遺髪塚


3 いく年月か 過ぎるとも
  学びの友は 目に浮かぶ
  天に召された あの友の
  運命に 福を祈るのみ
  ああ ここに黒髪眠る 遺髪塚

「都留高女の遺髪塚」について
昭和20年8月13日(終戦は8月15日)大月、禾生、下吉田がアメリカ艦載機F6F18機の攻撃を受け、死者54名、負傷48名、都留高女(減都留高校)では生徒ら19めいが即死。
この犠牲になった女学生のめいふくを祈るため空襲後の8月25日に亡くなった女学生の遺髪をいただいて都留高女で校葬を営み、その遺髪を納めて犠牲者を弔ったものです。
 昭和30年に都留高等学校東校舎生徒会名で、学校を見下ろす行願寺共同墓地の一角に石碑を建てました。現在の遺髪塚の管理は都留高校同窓会が行っています


遺髪塚の所在地 大月市御太刀1丁目 行願寺共同墓地

『遺髪塚の碑文』
太平洋戦争も終わらんとする、昭和20年8月13日午前8時20分、思いもよらぬ無差別の空襲でたちまち悲惨な血の地獄と化した都留高女、このたった数日の差があったら十数名の尊い生命を奪う戦争は終わったのです。悲しみの中に校葬を挙行し、遺髪を塚に納めて弔う。昭和30年旧都留高女校舎の歴史を閉ずるの時、生徒会の名において碑を建立。


「空襲の背景」
大月空襲は終戦の2日まえの8月13日です、多くの被害が出ました。大月農業会・大月税務所・都留高女を破壊し、死者・重傷者のほか、羅災者110名、工場3棟、民家29戸全壊等に達する記録があります。
 なぜ?大月が空襲の標的になったのか?大月には軍需工場・軍事施設があったり、交通の要所であったからと指摘されています。
 この空襲では特に都留高女都留高女の生徒が多くyなくなっています。学校内には陸軍航空本部第4技術研究所の工場が疎開していたり、上野原製作所落下傘製作所の分工場もありました。さらに、大月には立川航空工廠の疎開工場・東亜航空等の飛行機工場があり、飛行機の生産に大月全体が組み込まれていました。
 このような視点から空襲の標的になったものと思えるのです。
                              参考文献   「山梨の戦争遺跡」